心のノート

河合隼雄氏が亡くなり、氏が携わった『心のノート』が少し話題にもなっているようだ。『心のノート』は文部科学省が著作責任者となっている冊子である。2002年7億8000万円を投じて作られ、全国の小学生・中学生に配布されたようだ。翌2003年には文部科学省から『「心のノート」を生かした道徳教育の展開』という「道徳教育推進指導資料」を発行された。道徳教育のための冊子なのだ。
本ブログでもしばしば取り上げてきた石原千秋氏はその中の小学校5・6年用の「権利と義務ってなんだろう?」というページの次の文章を取り上げる。

たとえば、やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
あるいは、他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人がいたら、あなたはなんと言うだろうか。
このとき、あなたが感じたこと、言おうとしたことに「権利と義務」について考えるヒントがありそうだ。

この文章から「私」は何を感じ、何を言おうとするのだろうか。「やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人」に何を感じるのか。嫌な奴だな、と。「他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人」に対し、何と言うべきなのだろうか。「オレの権利も認めろよ」と。どちらも「嫌な奴」でしかなく、それ以外考えられないのだが、少なくとも「権利と義務」について何を語れ、というのか、私にはわからない。まさか「やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人」や「他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人」を見て、「権利」という概念が肥大化しすぎて、こういう「嫌な奴」が生まれた、もっと「義務」について考えなければならない、と考える人はいないだろうと思うのだが。「権利」は肥大化することが問題なのではなく、「権利」を濫用することが問題なのだ。
この文章について石原氏は次のように指摘する。

なぜ、こんな「厭な奴」を例に出して「権利」について考えなければならないのだろうか。事態は簡単ではないか。「権利」がダメなのではなく、こいつがダメなのだ。

そうなのだ。まさに「こいつがダメなのだ」。こういう極端な例を出しても「権利と義務」については考えられない。
そしてこのような文書を例として挙げる。

たとえば、やるべきことをきちんとやったうえで、自分の権利を主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
あるいは他人の権利も認めたうえで、自分の権利も主張しようとする人がいたら、あなたはなんと言うだろうか。
このとき、あなたが感じたこと、言おうとしたことに「権利と義務」について考えるヒントがあるようだ。

「やるべきことをきちんとやったうえで、自分の権利を主張する人」にどう感じるか。「いや、すばらしい」と。「他人の権利も認めたうえで、自分の権利も主張しようとする人」に何と言うべきか。「当然ですよ」としか言い様がない。
石原氏は「これでもまだ生ぬるいだろう。こういう文章ならどうだろうか」として次の文章を挙げる。

たとえば、やるべきことをやらずに他人の義務だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
あるいは、自分の義務は認めないのに、他人の義務を押し通そうとする人がいたら、あなたは、なんと言うだろうか。
このとき、あなたが感じたこと、言おうとしたことに「権利と義務」について考えるヒントがあるようだ。

「やるべきことをやらずに他人の義務だけを主張する人」にどう感じるか。「嫌な奴だ」と。「自分の義務は認めないのに、他人の義務を押し通そうとする人」にどう言うべきか。「まず自分の義務を果たせよ」と。こういう「嫌な奴」を題材に「義務」について考えさせること自体が、極めて恣意的である。
実際には石原氏は、国語教材でしばしば見られる「一人一人」というメッセージと「自然に帰れ」というメッセージに危惧を抱いており、『心のノート』にもそれを見いだしているのである。
それについては氏の『国語教科書の思想』(ちくま新書)を参照いただきたい。中学国語受験にも有用だし、教育論としても非常に興味深い内容が含まれている。