史料を解釈するということ4ー論点の整理ー

津軽安藤氏と南部氏の争いに負けて安藤氏が蝦夷地に敗走した事件を室町幕府がどのように処理したのか、という問題について、従来通説となってきたのは、一四三二年に一旦敗走するものの、室町幕府の強い説得工作によって戻ってきたが、当時の将軍足利義教嘉吉の乱で暗殺されると、一転南部氏によって一四四三年に敗走する、という流れであった。室町幕府の説得工作を示す、と考えられている『満済准后日記』を解釈する限り、室町幕府は強い姿勢で臨んでいるようには思えず、むしろアリバイ的に説得工作を行なっていることがうかがえる。そして一四四三年に敗走したとする史料自体に信頼性は少なく、利用には慎重な史料批判が必要である、と私は考えている。
史料を挙げておく。

南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々。以上畠山意見二カ条也。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。

この史料に関するアイヌ史研究者榎森進氏の解釈は次の通りだ。

南部氏に対し下国安藤氏と『和睦』のことについて御内書をもって南部方に指示すべきである。もしそれでも南部氏が承諾しないのであれば、御内書を曲解していることになり、それは許されないことである。陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきである。いまさら躊躇すべきではない。これが畠山の意見二か条である。山名も南部へ御内書を送ることは畠山と同意見である

この解釈には「曲」という言葉の解釈に重大な問題がある。榎森氏の解釈のように「曲解」という意味はなく、「ある状況に対応してなされる、もっともふさわしいやり方」ないしは「ある状況に対応してなされる行為として、もっとも望ましいすがた」という意味である。したがってこの史料の解釈は次のようになされるべきである。

南部氏に対し、下国安藤氏との『和睦』のことについて、御内書で指示すべきかどうか、という事について、もし南部氏が承引しないのであれば、御内書を出すという事は南部氏が下国安藤氏を蝦夷が島に追い落とした状況に対応してなされる行為としてはふさわしくないのではないか、という事について、遠国のことの成敗についてはいつものことであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきかどうか、ということに関しては問題はない。以上が畠山の意見である(他に伊賀国の問題についても満家は答えている)。山名も御内書の事については畠山と同意見である。

もう一つの問題は「遠国」の処置についての室町幕府の基本姿勢である。これを議論する時に忘れてはならないのは鎌倉府の存在である。
アイヌ史、それも近世のアイヌ史を中心に研究してきた榎森氏には「曲」という言葉の室町時代における用法を知らなかったことや、「事」という言葉の訳し方に問題があった。そしてもう一つ、鎌倉府の存在を考慮に入れていない、という問題点がある。鎌倉府の長鎌倉殿と室町幕府の長室町殿の対立構造の中で、室町殿足利義教の意向がストレートに東北の諸勢力に通じる、という想定がそもそも非現実的なのである。AとBという対立する勢力がある時に、室町殿がAに肩入れすれば、Bは鎌倉殿に通じる、という図式が成立している。室町殿が下国安藤氏に肩入れすれば、南部氏は鎌倉殿に通じるのである。そのような情勢の中で、義教の意向がストレートに通じるとは限らない。「外聞」つまりメンツを気にする義教は下国安藤氏に過度に肩入れすることで、南部氏が鎌倉殿に結びついて、義教の意向を無視することをおそれているのである。それに対し「無為」つまり安定を指向する畠山満家は「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣之事ハ非当御代計候。等持寺殿以来代々此御計ニテ候ケル由伝承様候」という基本方針に忠実に動いたのである。
室町幕府の遠国に対する方針はどのようなものであったのか。次回。