史料を解釈するということ5ー畠山満家という政治家

現在解釈している史料では畠山満家という人物が非常に大きな比重を占めている。満家の政治思想を理解するために3つの事件を検討したい。
1 一色義貫供奉ボイコット事件
1430年8月、足利義教の右大将拝賀が行われた。その席上、一色義貫が席次を不満として義教の説得を拒否して供奉を拒否するという事件があった。義貫を処罰するかどうかについて、義教は畠山満家山名時煕に諮問する。時煕の意見はしばらくの謹慎処分と所領の一部没収というものであったが、満家は「閣是非」つまり処分保留を主張する。義教は「畠山意見ハ事始也。毎事以無為儀可被閣条、可然由頻申入也」という(『満済准后日記』永享2年8月6日条)。訳すると「畠山の意見は判で押したようだ。いつも穏便な措置で処分保留を主張する」ということになる。そして義教は「今度振舞違背上意任雅意条、無御切諌ハ、関東鎮西へ聞モ不可然」つまり「今度の振るまいは上意の背き、我意のままに行動しているのを、処分しなければ関東・鎮西にも聞こえが悪いだろう」と心配する。さらに「雖被閣是非、公方御為御難モ無ク、又御威勢モ不可失事歟」つまり「処分を保留しても、問題も起こらず、権威も失うことはないだろうな」と念を押す。満家は「且不可有後難、御威モ又不可失」と答える(以上『満済准后日記』永享2年8月7日条)。それでも義教は安心できず「可有御免条定口遊有ラン歟」つまり「義貫を許したことについて世間は色々言うのではないか」と、世間の「口遊(くちずさみ)」つまり興味本位のゴシップにならないかを心配している。満家の反応ははっきりしている。「於其身振舞者、曾不可成御難、其身ノ未練ニテコソ候ヘ」つまり問題が起こるのは決断そのものではなく、迷いがあるからだ、と世評を気にして迷う義教を一喝している。結局満家以外にも時煕や管領斯波義敦、細川持元、細川持春、赤松満祐も満家支持に回り、義教は義貫屁の処分を見送ることになったのである。
ここでは一貫して「無為儀」ということが言われている。「無為無策」の「無為」ではなく、「何事もないように」ということである。中世史家の桜井英治氏は「直訳すれば穏便な措置とでもなろうが、これは室町幕府の政治用語であり、特に次の義教時代を理解する際のキーワードになってくる」としている。そして「ともすれば憶病者のことなかれ主義ともとられかねないこの馬鹿の一つ覚えを、確固たる信念のもとに主張し続けたのが満家という人物であった」(桜井英治『室町人の精神』講談社、2001年)と述べている。これには違う見方もあって、本郷和人氏は「満家の論理は、少なくとも天下を統べる為政者にふさわしいものではない。ここでは「無為」は文字通り「なすことなし」、事なかれ主義以外なにものでもない」(本郷和人「『満済准后日記』と室町幕府」、五味文彦編『日記に中世を読む』吉川弘文館、1998年)としている。
次は本郷和人氏が検討した永享4年2月の大内氏と大友氏の争いと大内氏の内部抗争に目を向けたい。この一連の過程の中で満家の遠国政策が出されるのである。そしてこの時満家が出した方針である「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣之事ハ非当御代計候。等持寺殿以来代々此御計ニテ候ケル由伝承様候」は、下国安藤氏と南部氏の戦闘に対する室町幕府の対応を決定したのである。
2 大内盛見戦死
3 大内持世と大内持盛の内紛
は次回以降に。