史料を解釈するということ6ー畠山満家という政治家2

畠山満家という政治家を理解する時にポイントになるのが「無為儀」という言葉である。畠山満家がしばしば述べた「無為儀」について本郷和人氏は「満家の論理は、少なくとも天下を統べる為政者にふさわしいものではない。ここでは「無為」は文字通り「なすことなし」、事なかれ主義以外なにものでもない」(本郷和人「『満済准后日記』と室町幕府」、五味文彦編『日記に中世を読む』吉川弘文館、1998年)としている。それに対し桜井英治氏は「ともすれば憶病者のことなかれ主義ともとられかねないこの馬鹿の一つ覚えを、確固たる信念のもとに主張し続けたのが満家という人物であった」(桜井英治『室町人の精神』講談社、2001年)と評価している。本郷氏が「為政者にふさわしいものではない」と批評した満家の論理を検討したい。本郷氏が問題にしている満家の態度は、満家の遠国策と同梱だからである。
題材は永享4年2月の九州での騒乱である。大内盛身が大友持直・少弐満貞に討たれ、大友持直と大内持世・持盛が抗争を続けていることにどう対処すべきか。

管領斯波義敦以下は声をそろえていう。戦争を終結させる「無為成敗」こそが肝要である、大友は赦免してやろう。大内持世は養父盛見を大友持直に討たれている。この不倶戴天の両者をいかにしてともに「無為」にすべきかが問題なのではないか、と義教はおそらくは苛立ちながら反論するのだが、それでも重臣たちは「無為成敗」と繰り返すのみである。前管領畠山満家に至っては、次のように言う。幕府が大友を赦免し、なおかつ大内が大友と合戦に及ぶのであれば、それは私戦であるから、もはや幕府のあずかり知らぬことである。

この満家の発言を本郷氏は「為政者に相応しいものではない」「事なかれ主義以外のなにものでもない」と批評するのであるが、わたしにはそうは思えない。満家にしては珍しい激しい発言である。当該発言を『満済准后日記』から見てみよう。

管領意見。大友嘆申上者、有御免無為成敗可然云々。畠山同前。但大内、大友不拘御成敗、輿大友及弓矢者、可為私儀歟之間、不可有御下知限云々。(永享4年2月13日条)

斯波義敦は、大友が赦免を請うてきた以上、赦免すべきであるのは当然である、という意向を明らかにした、それに対し、畠山満家はそれに加えて、もし大内が幕府の命令に背いて大友と合戦するのであれば、幕府は大内を支援しない、という意向だったのである。
これに関してはいくつか注釈を加える必要があるだろう。
もともと大内氏は大内義弘が応永の乱で滅ぼされてから、家督継承争いを経て当初幕府に抵抗していた義弘の弟盛見を家督とした。その後盛見は足利義持に重用され、事実上幕府の軍事を畠山満家と並んで担当するようになった。盛見は九州に進出を企てた。大友持直との対立を心配する義教は、盛見の独走を牽制しようとするが、盛見はそれを振り切って筑前への進出を強化する。それに激しく反発したのが、鎌倉時代以来九州に勢力を張る少弐氏と大友氏であった。少弐満貞と大友持直は大内盛見と激しく争い、永享3年6月28日に猿楽見物中に菊池兼朝に奇襲され、あっけなく戦死する。
盛見の死後大内氏は再び家督継承争いが勃発する。義弘の子で盛見の養子となっていた持世・持盛兄弟で争いが起こったのである。盛見は生前持盛に周防国、持世に長門国を分配する予定であった。大内氏の本拠が元来周防国で、大内氏は代々周防介を名乗っていた。事実持盛が「新介」と呼ばれていた事実を勘案すると、当初盛見は持盛を後継者と考えていたように思われる。しかし永享2年の段階で盛見は内者(被官)の内藤智得に「於新介者、諸事不可叶」(『満済准后日記』永享3年9月24日条)と漏らした、という。つまり「新介(大内持盛)では家督はつとまるまい」ということである。幕府は持世に家督を継承させ、持盛には長門国を与える、という決定がなされている。それに対し不満を持った持盛と持世の間で確執が起こり、永享4年正月25日付けで、大友持直の一族で反持直派であった大友親綱に次のような御内書を送っている。

九州事致無為之成敗之処、大内刑部少輔持世、並新介持盛既及難儀云々。此上者令合力持世、不日致合戦、有戦功者可有抽賞也。

つまり九州に「無為之成敗」をしようとしたところ、大内持世と大内持盛がすでに難儀に及んでいる、ということだ。持世に見方をして、合戦に備えよ、ということで、義教はこの段階ではすでに持世を支援することを決定していた。大内氏自体が二つに分裂している状態で大友氏と対立すること自体が満家からすれば無謀であり、満家は大内氏がもし大友氏と戦闘すれば、幕府はその争いには介入すべきではない、つまり大内氏を見捨てることもいとわない、という選択を行ったのである。