戦う相手はどこか

私たちブロガーが戦うべき相手は何か。レイシズムを煽るネットウヨクか。反日を煽るブサヨか。人によってはそれらこそが戦うべき相手かも知れない。しかし私は最近主要な戦場はそこにはないように思えてきた。私はどちらかと言えば左派にカテゴライズされるだろうし、私自身左に偏向していることは自覚しているがゆえに、保守派に対して批判的言辞を弄してきたのは事実である。しかし最近私は左派ー右派以前にブロガーにとっての戦場があるように思えてきた。だから最近では保守派ブログに対する批判を止めた。そもそも私ごとき小物に批判されたとて、何ら痛痒を感じないだろうし、だからこそ先方に甘えて批判もしてきたのだが、私のやってきたことはあまり意味がないのではないか、少なくとも私がなすべきことは他にあるのではないか、と考え始めた。それはここ半年足らずのことである。
ブロガーである私がなすべきなのは、ネット上における言論を阻害する「荒らし」「ネットイナゴ」を批判することではないのか、と思えるのだ。右派ー左派の対立以前にネットイナゴの跳梁跋扈こそ、ブロガーが共闘しなければならない点であるように思う。ネットイナゴと戦うことは、極端に言えば日本の核武装を推進するか、非武装中立を指向するか、よりも大事なことのように私には思えるのである。私自身は左翼にカテゴライズされるだろうし、私の主張はかなり左傾化していることは事実だが、だからといってネットイナゴ行為を行う非武装中立論者よりも、ネットイナゴ行為を批判する核武装論者と連帯すべきであると考えるに至ったのだ。このことを私に認識させてくださったのは、核武装推進のブロガーであったり、反中・嫌韓論者であったり、あるいは左派ブロガーであったりしたわけだが、主義主張の違いを超えて、まずは自分の主義主張を行える場を整備することが重要である、と思うようになった。
自分の言論の場を確保しようとする時に、その阻害要因になるのが「ネットイナゴ」である。これは左右を問わない。私と同じ思想の人間が、私と真逆な思想を持つブログに「ネットイナゴ」行為を行っていれば、私は躊躇することなく、私と真逆のブログを応援すべきなのだ。私と主義主張が同じ「ネットイナゴ」を非難すべきなのだ。
まずはネットにおける言論の阻害要因である「ネットイナゴ」について定義しておく。基本的にはてなキーワードにおける定義に従う。これこそが現在のネットにおける一つの言論を阻害する要因であり、ブロガーにとって主義主張の違いを超えて団結して共闘しなければならないものであるからだ。

1 自分の意見と異なる主張をする者に対して、相手の考えが変わるまでコメントを続ける者
2 自分が直接コメントスクラムに参加しなくても、それを焚き付ける行為をする者
3 他人のサイトが「炎上」するのを見て喜ぶ者
4 「炎上」しているブログに対し、尻馬にのって罵倒コメントを残す者
5 それが恥ずべき行為ということを分かっていない者
6 単なる荒らしと異なるのは、コメントの際に意味不明な単語の羅列などは行わない事

1について。これが「ネットイナゴ」の基本である。「自分の意見と異なる主張をする者」に対して、しつこくコメントを繰り返す行為は、「荒らし」そのものであり、いかに「穏やかに」行われていても、そのしつこさだけで十分「暴力」になり得る。もしその人の主張に看過できない点があるならば、自分でブログを立ち上げてそちらで批判すればいい。
2について。自分でブログを立ち上げてそこでいかなる言論をしようとそれは尊重されるべきである。しかしそれを焚きつける行為は、ブログを運営する者にとっては自分で自分の首を絞めるが如き行為でしかない。そのような行為はやがて自分に返ってくる。
3について。ブログが炎上するのは、ブログの思想が考え直す必要があるとか、ブログの思想がマイノリティだとかでは断じてない。そのブログのないようの如何を問わず、ブログが炎上した責任は炎上させた側にある。ブログ主に少しでも責任がある、という考えはおかしいのだ。そもそも思想的な問題は万人受けしない。もちろん万人受けしないからといって、炎上を引き受ける必要など全くない。思想の如何に関わらずブログが「炎上」するのは、ブログを通じた言論が危機にさらされていることの証左でしかない。ブログの「炎上」を見て喜ぶ行為は、ブロガーにとっては自殺行為である。
4については言うまでもあるまい。
5について。そういう行為は恥ずべき行為であるのだが、それが分からずに他人のブログの炎上を喜んだり、焚きつけたりする者は、思想の如何を問わず、そもそもブロガーに対する背信行為である。
6について。自然発生的な「荒らし」と異なるのはこの点である。必ず何らかの思想を持って、自分と異なる主張をする者に対して攻撃を行なう。「職業的な荒らし」とも呼ばれるのが「ネットイナゴ」なのだ。
ブロガーにはジレンマがある。自由闊達な議論の場を提供したい、という意識は多くの人が持っているはずだ。しかし大事なのは「自由闊達」であることと、「荒廃」していることは紙一重であると同時に、決して同じではない、ということだ。本当に「自由闊達な場」を提供したければ、管理人がしっかり管理をしないと、その場は自由闊達ではない、荒廃している場に堕してしまう。荒廃した場には自由闊達な議論はもはや望めない。暴れ回った者勝ちになる。だから「自由闊達な議論の場」を作り上げたかったら、ネットイナゴに対しては断固たる処置が必要なのだ。
基本は削除。ネットイナゴのコメントを削除するのはブログ主のなすべき基本原則である。権利ではない。真に自由闊達な議論の場を作り上げたいと思うのであれば、それは責務であると言ってよいだろう。コメント欄を荒廃するに任せることは、そこに居座る「ネットイナゴ」の活動の拠点を提供していることになる。
削除する基準だが、基本的に必要なコメントとは「自分にとってプラスになる意見」だけである。「自分にとってプラスになるかどうか」を決めるのは自分しかいない。全ての意見を受け入れる訳にはいかない。自分と違う意見を受け入れる必要など全くない。だから「自分にとってプラスにならない」意見は全て削除の対象となり得るのだ。その中で「自分が不快に思ったもの」を削除すればいい。削除基準を明文化すると必ずその間隙を衝いてくる。だから削除基準は「自分が不快に思ったもの」である。
最近のネットイナゴ行為の特徴としていきなり罵倒や非難を行なうことは少ない。「善意の意見交換者」として現れる。質問や提案などをしてくるのだが、ブログ主のささいな落ち度を見つけるとそこから「紳士的な物言い」で非難を始める。そこに激昂した感じで恫喝を行う者も出現し、さらに第三者を装った人物が現れる、というパターンが目に付く。リンクが貼られ、尻馬に乗って罵倒コメントを残す者も現れる。こうしてコメント欄は荒廃していくのである。そのパターンを考えれば、注意すべきコメントは見当がつく。ブログ主に何らかの要求をするものは要注意である。特に質問に関しては注意を払うべきである。ここで対応を誤ると炎上する。質問には最大限慎重に答える必要がある。もちろん答える義務などない。答えたければ答えればいいが、慎重な答えが行えない、となれば、無視、あるいは削除も検討すべき手段になる。謝罪を要求するのは論外である。速攻削除すべきである。ブログ主の主張に疑問をもつ、あるいは非難するコメントは早々に削除対象にした方がいい。おかしいと思えば自分でブログを立ち上げるべきなのだ。
ネットにつながることができれば、ブログを持つことができるのだ。そしてブログはリンクやトラックバックでつながることができる。それがブログの醍醐味なのであって、コメント欄での議論は瑣末なことにすぎない。そもそもコメント欄をどうするかはそのブログ主の自由である。削除が非難されるいわれは全くない。
ちなみに私の削除基準も「私にとって気に入らないコメント全て」。多分コメントは実際には今のところ削除していない。それは私が削除しない方針だからではなく、私のところにコメントをくださる方々の徳のなせるところである。私に対する批判も指摘も私にとって有益なコメントばかりなので、今のところ削除していないだけだのだ。
何度も言うが、気に入らないコメントを削除する。あるいは承認制にする。それによってコメント欄の秩序を保つことは、自由闊達な議論の場を失わせることには決してならない。それどころか自由闊達な議論の場を保証するための必要条件ですらある。