コメント削除のジレンマ

マキャベリの『君主論』において、なかなか含蓄深い言葉がある。

古今東西多くの賢人たちは、想像の世界にしか存在しえないような共和国や君主国を論じてきた。しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは、大変にかけ離れているのである。
だからこそ、人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生き様を直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向かうしかなくなるのだ。
なぜなら、なにごとにつけても善を行おうとしか考えない者は、悪しき者の間にあって 破滅せざるをえない場合が多いからである。

ネットイナゴ対策の基本は「気に入らないコメントは削除」である。当然削除された側は「気に入られなかった」だけであり、そのコメント自体が不適切であったかどうかは問題ではない。そこの管理人とは所詮縁がなかった、ということだ。コメントを削除することを躊躇すべきではないのだが、同時にそれはコメント削除は大したことではない、と割り切ることは必要だろう。
コメント削除には大きなジレンマがある。それはまともな批判をも削除することによって自ブログの評判を下げてしまうことである。炎上研究(笑)というか、ネットイナゴ研究(笑)という分野では、この問題に関しては「適度に開き直る」ことが必要である。いわゆる「職業的な荒らし」と呼ばれる者たちは「荒らし」という言葉が持つイメージとは裏腹に罵詈雑言を書き連ねることはない。「職業的」というのは金をもらっているケースもあるだろうが、つ多数派は植え付けられた信念に基づいて行動している「荒らし」のことである。自分の信念に反した意見を封殺することが目的である。だから罵詈雑言を書き連ねることは決してプラスには働かない。一部はそういう姿勢を取り、威圧すると同時に、それをなだめたり、中立的な意見を述べたり、様々な役割を持つ人間が役割分担をしながら、最終的にはブログ主に謝罪をさせ、評判を落とすことを狙っている。最終的な目的はコミュニティの分断である。したがって「まともな批判」を削除することによる評判の下落は彼らの目的を果たさせることになるのは事実だ。あるいコメント欄に対する承認制の導入やさらに進んでコメント欄の閉鎖によるコメント機能の制限も彼らには十分目的を果たしたことになる。
彼らの基本的な手口は次の通りだ。まず「善意の意見交換者」がやってくる。彼らはいつまでも食い下がる。同じような質問を連投する。普通ブロガーは一日中パソコンに張り付いているわけにはいかない。ブログ以外にもやらなければならないことは山積している。管理人が苛立てば、それこそ彼らの思うつぼである。さらに「粗暴な荒らし」が登場する。居丈高にブログ主に迫る。ブログ主が弱気になった頃を見計らって「中立的な立場から仲裁を行う第三者」が現れる。そこでブログ主に謝罪を要請するのである。彼らは心理戦に長けている。ブログ主を追い込むのはお手の物である。気がつけばブログ主は悪者のように印象操作されている。削除して評判を落とすことを恐れて削除に慎重になっても、「職業的な荒らし」によって悪者に仕立て上げられる可能性が高い。彼らはブログ主を苛立たせ、失言させることを狙っている。テレビのレポーターと同じ手口である。あれものべつ幕無しに責め立ててターゲットを苛立たせ、失言を取り上げて、ターゲットのバッシングを正当化するために、レポーターは群がるのだ。「職業的な荒らし」も同じことである。
ある程度「極論」を主張する時には、「どうせ万人受けはしない」と開き直る必要がある。つまり最初から他人受けをしようと思ってブログを立ち上げたわけではない、と割り切る必要がある。自分の主張を発信するためにブログを立ち上げたのであれば、必要なものは「自分の主張」と「自分にプラスになると考えたコメントだけである」と割り切らなければならない。そして自分の意見にはそれ相応の支持者もいる。自分の根本的な意見を変える必要は原則ない、ということである。「炎上するのはその意見に問題がある」とか「その意見がマイノリティだからだ」という意見に耳を傾ける必要はない。そういう意見こそ言論の場を崩壊させる、許されざる意見である。自分の意見が唯一正しい、という子どもじみた意見に耳を傾ける必要はない。
ブロガーは自分のブログを守る義務がある。そうすることによって自分のブログに集まってくる人々を守ることになる。
追記 Wafer氏の指摘を受けて文の順序の入れ替えを行った。貴重なご指摘深謝。