「組織的」な「工作員」

「荒らし」や「ネットイナゴ」と言われる行為について、しばしば「組織的」とか「工作員」とか言われる人々が出現することがある。「組織的」とか「工作員」という概念はどういう状態を指すのか、ということについて考察を加えてみたい。
まずはじめに言っておきたいのは「組織的」な「工作員」相手に論争は基本的に無益である。相手はこちらの説得に耳を貸すことはない。一方的に自説を述べるだけである。しばしば「決めつけ」は「議論を閉ざす」という。しかし議論をする気がない相手に議論はできない。ここをまず念頭に置く必要がある。
工作員」とか「組織的」とか言われた場合、一般に想起するのは、何らかの組織に所属していて、その組織のために命令を受けて行動することであろう。あるいはお互いにオフで、あるいはネット上でも連絡を取り合って役割分担をする、ということである。しかし実際そういうこともないではないが、少数派である。
工作員」と言っても、特定の組織なりの構成員である必然性は全くない。それどころか特定の思想の代弁者として自己を意識していないケースすらある。自分のやっていることが「崇高な使命」とか、「己に課された責務」と思い込んで、自分の主張を他人のブログに書き込めば、それは十二分に「工作員」と呼べる態のものになる。例えば私は阪神ファンであるが、阪神とは何の関係もない。ファンクラブの会員ですらない。その私が新井貴浩選手のFA移籍に不満を持つ広島ファンのブログに乗り込んで議論を強要すれば、それは立派に阪神ファン工作員なのである。
「組織的」という言葉に関して。
実際に組織として動いていなくても十分「組織的」であり得る。「組織的ではない」といいながら、あとで「ストーキングサイト」に集まって盛り上がっているケースを見た時には笑ってしまったが、ここまでガチで「組織的」なのはむしろレアケースである。多いのはひとりの人間が流れを作り出し、その流れに乗ってその場で組織的な動きをする。この辺は阿吽の呼吸で、居丈高な人間が相手を萎縮させ、或いは反発させ、もう一人が仲裁に入るような形で少しずつ管理人を追いつめる。追いつめられた管理人が失言をするのを待っている。失言をすれば今まで自分がやってきたことは棚上げしてその「失言」を執拗に取り上げ、さらに追いつめる。しかしその「失言」はそもそも「工作員」というか「荒らし」「ネットイナゴ」が追いつめたものであり、実際にはマッチポンプでしかない。しかし事情をつまびらかには知らないギャラリーには管理人が「失言した」と映る。
彼らは管理人が苛立って「失言」を行うのを待っている。彼らの目的は印象操作だからだ。彼らに議論を挑めば、「失言」をさせられる。「失言」していなくても揚げ足をとられ、「失言」と印象づけられる。掲示板などで鍛えられた彼ら「工作員」の力量を甘く見てはならない。下手に議論に乗ってはならない。