2008年1月

関西よつ葉連絡会の鈴木伸明氏の署名記事(「ひこばえ通信」)より。

(1)食の問題を社会全体のあり方との関連できちんと、歴史的な変遷も踏まえて、把握する必要があります。市場経済」の世界的な展開を無批判的に受け入れ、前提とするのではなく、そうなってきた過程を省みる中で、失ってしまった大切にされなければならない事柄・価値を私たちなりに整理することから始めます。
(2)「生産と消費、都市と農村の対立」はますます深刻になっています。直接的な関係はほとんど失われ、その間を無味乾燥な中央の役所が取り仕切ることになります。その流れを変えるためには「生産と消費の結び目」としての「流通」の仕事のあり方を再度問い直す必要があります。お互いが見えなくなって、つなぐものは「商品・金銭関係のみ」、信頼の基礎は「証明書」「表示」というのではあまりにも貧しいと言わざるを得ません。
(3)30年余りの間に、食を取り巻く環境は随分と不自由な世界になっています。言葉一つ使うのも許可が要る時代。先進的な活動の中から生れた「有機」「無農薬」という言葉などその典型。そもそも、社会批判の思想としてあったもの。それが力を持つようになった途端「規制」の対象になり、同時に力=思想を失うことになり、そのような言葉だけでは食への想いは伝わらなくなっています。新しい言葉を生み出す必要があります。それは再び食の事業に活力、将来に向かっての能動的な活動を取り戻すことにつながるはずです。
(4)地域社会の崩壊、人間関係の希薄さが問題になっています。そのことと、一次生産の現場の崩壊とは強い相関関係があると考えます。あらゆる生産が単なる商品の関係に置き換えられ、自然と共にある生産とその生産を維持してきた地域の共同関係が損なわれてきました。元に戻ることはできないにしても、新しく作り直すことに貢献する仕事をしていく必要があります。
(5)食の安全性が大きな社会的な問題として認識された始まりを考えると、食の「工業化」に行き着きます。社会が「高度成長」していく過程と比例して問題の深刻さは増しています。輸入産物の増大と危険な食品の流入もその流れの中で起きているわけで、問題が発生するのは生産の動機の不純さに原因があります。食べるために作るのではなく、利益・金を得るために作る、という決定的な違いの中に不正発生の根拠があり、今は「不正」発生の条件を有り余るほど備えた社会なのであって、「規制」とのイタチごっこが今後も繰り返されます。そして、「公権力」はそれを利用して肥大化していく、というおかしな結果になっています。管理の強化は根本的な解決とは関係の無い話。むだに使われる税金がふえ、社会がますます壊れていくことにしかなりません。
(6)食の「餌化」が問題になっています。コンビニ食が全盛を迎え、食のあり方が大問題となり、「食育」という問題意識もうまれました。いかに社会が病んでいるかの証左ですが、この問題に正面から向き合う必要があります。かつてはよき食生活など、風習として、次世代に当たり前に継承されてきたことが、その継承を保証した社会・地域・家族の関係が失われているという問題に行き着きます。「親の背を見て子は育つ」といわれるわけで、知らず知らずの間に事態は進んできて、どうしようもない手本になってしまった自身の反省も込めて、作り直していく必要があります。

いくつか私の関心を呼んだ部分を太字にしてみた。
(1)の太字部分。グローバリゼーションを無批判に受け入れるのではなく、その影の部分を見据えなければならない。
(3)の太字部分。特に「そもそも、社会批判の思想としてあったもの。それが力を持つようになった途端「規制」の対象になり、同時に力=思想を失うことになり、そのような言葉だけでは食への想いは伝わらなくなっています。新しい言葉を生み出す必要があります」の部分は「改革」という言葉にも当てはまる。「改革」は本来社会批判の思想としてあったもの。しかし今ではネオリベラリズムのもとでの国家への服従を強制するものとして機能している、という現実がある。
(4)の太字部分。特に「あらゆる生産が単なる商品の関係に置き換えられ」という部分は、まさにマルクスの「疎外論」あるいは「物象化論」とも関わるのだろうが、廣松渉氏の著作でも読み直そう。同じことは(6)の「食の「餌化」」にも関連するだろう。こういう問題を考察したのがマルクスだったわけで、廣松渉氏の『今こそマルクスを読み返す』という著作の題名通りの気がする。私は『今さらマルクスを読み返す』とネタにしていたが。