富井電鉄の沿革

富井電鉄か富井鉄道かわからないが、1031(トミー)号の車体にはTとOとMとY(Oは周囲の○)をデザイン化した社紋が付いている。だから何個目の捏造か忘れたが、今度は富井電鉄の設定を捏造することにする。
阿曇野に1915年阿曇野鉄道が開通したが、阿曇富井〜阿曇大山までは石舟川左岸地域に建設されたため、これに取り残された右岸地域面影橋町の住民主導により設立・敷設された。資本面では阿曇野鉄道の子会社で、当時、阿曇野鉄道が電化されていたことから、これに合わせて電気動力を使用し、電力についても阿曇野鉄道から受電、また電車についても阿曇野鉄道と同形の電車を導入した。このように、実態は阿曇野鉄道の支線であった。阿曇野鉄道が路線を国に買収され解散したことで経営が更に困難となった。阿曇野鉄道同様に国有化を希望したものの断られ、紆余曲折の末、野原鉄道の傘下で経営再建を目指すことになった(前の捏造鉄道は登場させるw)。戦時中に周辺の乗り合い事業者も含めて統合され、野原交通が発足した。野原交通とは線がつながっていないこともあって、別会社として運営されることになった。全長7km足らずの短小路線であり、基本的には国鉄阿曇野線の支線のような運用が行なわれている。
車両は2両で運用開始され、戦後の混乱期には規格型車両を一両増備し、鋼体化も行われたが、リゾートブームの中で17m級国電の譲渡で現在の形になった。
というようなでたらめな話を捏造して楽しむのだ。