琉球と薩摩

琉球に薩摩の島津氏が関与するのは室町時代も後期に入ってからである。1480年に室町幕府は奉行人奉書を島津武久に出して琉球との仲介を依頼する。それまでは島津氏と琉球との関係は特に見いだせない。室町幕府が島津氏に依頼した背景には何らかの関係は既に存在していたのかも知れない。
琉球への日本船の増加は1547年に日明貿易が途絶してからである。室町幕府の権威の源泉ともなっていた「唐物」を入手する主要なルートであった大内氏が滅亡し、勘合貿易も途絶した以上、唐物を入手するには琉球に行くのが近道だったのだろう。そうした状況の中で琉球に近い場所にある島津氏の影響力は増していく。
琉球の東南アジア交易における地位の低下も琉球の日本への依存を強める要因となった。一六世紀半ばには明は海禁を停止する。海禁体制の下で琉球は中継貿易を行うことで経済的に支えられていた。しかし経済的な支柱が崩れ去ったのである。1570年に暹羅にやってきた琉球船が東南アジアにやってきた最後となった。1570年以降、琉球の日本への依存は決定的となる。
それを決定づけた事件が「あや船一件」である。島津貴久から義久に代替わりする時に琉球は代替わりの使節を派遣する。しかし義久は琉球が島津氏の許可のない二本線を受け入れていること、さらには琉球との外交を担当していた広済寺の雪岑への薄待を責める。1559年以降、島津氏は島津氏の許可のない日本船の琉球渡航を禁止する権限を手にしていたのである。その権限を琉球にも及ぼそうとしていたのだ。
この一件があっさり通ったのには理由がある。広済寺の雪岑と、琉球で対日本外交を担当していた琉球円覚寺の檀渓はいずれも南禅寺の法系に連なる同門同士であった。琉球は対日外交を日本から招聘した禅僧に依拠していたのである。琉球の外交を担当した明人と同様の状態が琉球の対日関係を担当した禅僧にも言えるだろう。すなわち琉球の対日関係を担当した琉球円覚寺の禅僧の人事権は南禅寺、ひいては室町幕府が掌握していたのである。そして彼らは琉球王府よりは南禅寺とそのバックへの帰属意識を強く持っていたことも想像に難くない。
日本国王たる室町殿と琉球国王たる「よのぬし」との間の関係が対等の関係ではなく、上下関係になっていたのかも諒解されるのである。琉球が担当させた専門家集団に原因があるのである。したがって琉球国王日本国王を宗主として仰いでいた、とか、琉球が日本に対して同種同文意識を持っていた、とかは決して言えない。
それでは琉球はなぜ日本の禅僧や明の専門家集団に外交を任せたのであろうか。これを理解するためには、華夷秩序なるものを正確に把握する必要性がある。