室町時代における「日本」「日本人」

室町時代における「日本人」という史料の用例を調べてみると、ほとんど見当たらない。朝鮮王朝の史料『朝鮮王朝実録』には「倭人」と「日本人」が出てくるが、圧倒的多数が「倭人」である。「倭人」と「日本人」は同じなのか、と言えば、実は違う。『朝鮮王朝実録』の中の「倭人」を「日本人」と同一のものとして史料を解釈するのは、史料を誤読していることになる。子細に検討するとほとんど用例の見られない「日本人」は室町幕府の関係者のことを指している。「倭人」は室町幕府関係者以外の人々である。朝鮮王朝と関係を持つ日本列島上の人々と言えば、室町幕府関係者でなければほぼ壱岐対馬に限定される。「倭人」というのはほぼ彼らを指しているのである。
朝鮮王朝の下で編纂された『高麗史』においては「日本」と「倭」の使い分けは非常に鮮明である。室町幕府を「日本」としている。「倭国」はどうも南朝の征西将軍府のことを指しているようだ。従って室町幕府=「日本」以外は「倭」なのだろう。守護大名からの使者は概ね「日本」として扱われるが、守護大名の一門で、独自に遣使した場合には室町幕府との関連が不明確ということで「倭」とされることもある。
追記
室町時代の「日本」=室町幕府ということだが、朝廷はどうなるのか、というと、室町幕府に吸収されていく。公武融合政権という見方がなされている。室町殿は征夷大将軍である以上に廷臣でもあった。尊氏・義詮は権大納言止まりだったが、義満は太政大臣、義持は内大臣、義教は左大臣、義政も左大臣として朝廷でもトップの地位にあった。朝廷の廟議も室町殿に押さえられていたのである。義詮のころから武家執奏という形で室町幕府は朝廷の人事権に介入する。朝廷で昇進するのは室町幕府の息が掛かった廷臣のみ、ということになるのだ。義満の代になると、公家の官位を決定する除目の原案も義満が作成するようになる。南北朝合体後に南朝側の後亀山に太上天皇位を送ることも義満の「仰」=意向で決定した。朝廷の多数意見は南朝を徹底的に無視する、というものだったのを義満が押し切ったのだ。
もっとも完全にコントロールできたわけではないようで、明徳元号改元する時に義満は「洪徳」年号を推した。義満は「洪武」への敬慕を込めたのであるが、それを見透かされた公卿の反発を食らい、結局「応永」に落ち着く。ただ反対理由は「洪水の難」や「徳」の字が連続することへの懸念という形をとった。義満の意図に表立って反対することはさすがにできなかったのである。
応永年号は義持が将軍に就任した時に始まった年号であり、ある意味「代替わり改元」の色彩が強い。これ以降元号は足利氏の代替わりに改元されることになる。後小松天皇称光天皇に譲位した時にも改元は行われず、応永年号のまま義持の死を迎えることになる。そして義持の死と義教の襲位を以て「正長」への改元が行われる。ただ後小松上皇の反発もあって、一応称光天皇の代替わり改元ということになっているが、当時称光天皇は重体であった。改元後3ヶ月で死去した。
祭祀権も主な祭祀は廃絶に追い込まれ、室町殿の主催する祭祀に取って代わられる。五檀法は奪取され、天皇家に残ったのは大元帥法と後七日法だけとなった。
このように義満時代に朝廷権能の幕府への接収は進行する。義教が嘉吉の乱で横死した後、一時的に天皇が国政をリードする局面が見られるが、それは公武融合が極限まで進んだ段階で室町殿が機能不全に陥った時に一時的に天皇が室町殿の権能を代行したに過ぎなかった。義教が横死し、嫡子義勝が幼少で、室町殿権力を代行すべき管領細川持之嘉吉の乱の際の不手際で求心力を失った、という特殊条件があって、後花園天皇が室町殿権力を代行して嘉吉の乱の首謀者赤松満祐討伐や、大和国の国人の争いに後花園天皇が介入するのである。
それ以降室町殿権力が機能不全に陥った時に天皇が室町殿権力を代行するケースは見られる。これはしかし室町幕府の枠組みから外れた権力の行使ではなく、あくまでも室町幕府権力の枠組みの範囲内における権力行使なのだ。従って、室町時代における「日本」とは室町幕府に外ならない。
室町幕府権力から脱落するとそれはもはや「日本」とは見なされないのだ。室町殿の軍事力を担った大内氏と対立し続けた少弐氏とその代官であった宗氏はいわば「倭」だったのであり、少弐氏が「日本」としてみなされるのは、室町幕府支配下にある時だけだったのだ。
当時の権力は今のように領域支配を行っているわけではないことに注意する必要がある。基本的にどこまでが「日本」なのか、というものではない。従って「日本」と外との境界は「日本」か「日本」ではないのか、という二者択一のものではない。黒か白かではなく、グレーも存在するのだ。「境界領域」というものが「日本」と「日本」ではないものの間に存在するのである。その辺の問題をもう少し掘り下げたい。