アイヌ学の誕生

日本におけるアイヌ学の権威と言えば金田一京助がまず思い浮かぶだろう。金田一によるアイヌ学について少し考えてみたい。
金田一とその弟子に当たる知里幸恵知里真志保については丸山隆司氏の『〈アイヌ〉学の誕生ー金田一知里と』(彩流社、2002年)に多くを拠っている。
金田一京助アイヌ研究に入るきっかけを次のように述べている。

普通に行つてゐたら国語の研究者とでもなつてゐた所だつたらうと思ふ。が国文学に行かず、国史に行かず、国語から滑つてアイヌ語の専攻へ這入つたのは、やはり一には自分の性分からであらうが、又一には不思議な縁が自分を此の方向へたぐつてゐた事が、今に至つてはつきりとたどられる。

夢多き青年時代をわけもなく酔はした「天才」というような語のひびきが、いつしか我々を酔はしめなくなった時、英雄時代の夢から醒めて平凡な全体性、「民衆」といふものの力がより多く我々の注意を惹き我々の心をうつやうになつた。

ここでは国文学や国史に行かなかった原因を「平凡な全体性、『民衆』をいふものの力がより多く我々の注意を惹き、我々の心をうつやうになつた」ことに求めている。しかし一方でこうも言明している。

なぜなれば私は言語学専攻者中、一等北寄りの国岩手の産で、幼少からそれとなく「エゾ」の名で、或は「アイノ」の名で、この種族のことが度々噂に出てそれが耳の底へ残つてゐたからである。従つて何としても中央や西南の人よりは多くの親しみをもつていたことは争へない。ただそれだけのことなのである−私とアイヌ研究との特殊なかかはり合ひが若しあるとすれば。

これは当時の東京帝国大学の体制とも関係がある。当時の言語学科の主任教授上田万年は内地雑居という状況に即応して「国語」=「標準語」を創出する必要性を痛感していた。一口に「日本語」と言っても、金田一春彦氏によれば、福島弁と津軽弁でもポルトガル語スペイン語よりは差異が大きいようだ。江戸で津軽藩薩摩藩藩士が出会った時、彼らは口頭では意思のやり取りが出来ず、書面でやり取りしていたという逸話もある。国家の主体性を国語を創出することで実現させようと上田は目論んでいたのだ。そして「日本語」を確定する時に上田がとった手法とは、「日本語」の周辺を押さえることであった。伊波普猷に古琉球を研究させ、金田一アイヌ研究を行わせたのは、その構想に基づいてのことであったろう。上田は「言語学専攻者中、一等北寄りの国岩手の産」であった金田一アイヌ語研究を行わせた。つまり金田一アイヌ語を研究の対象として選択することが可能であった、つまりアイヌ語が学問として認知されていたのは、上田による「国語」創出プロジェクトの一環として位置づけられていたからである。
アイヌ研究は北海道帝国大学における開拓植民学の一分野として行われるか、それとも「国語」創出プロジェクトの一環として行われるか、であったのだ。アイヌ研究がしばしば劣等性をアイヌに刻印してきた原因はアイヌ学の出発そのものに胚胎していたのである。
金田一アイヌ研究もそのような問題意識から出発していた。金田一アイヌ研究の素材としてアイヌの古語の探求を行おうとした。日本語とアイヌ語の系統を論じるためにより古いアイヌ語を古謡の中に見いだそうとしていたのだ。岩野泡鳴は北海道を旅した経験を次のように述べる。

徒らに土人学校を設けて、道庁が国費を空費するよりも、その金を以つて語学の才あり且文芸的思想のあるもの数名を撰んで、アイノ語を研究さし、アイノ文学をできるだけ正確に言語のまま羅馬字または仮名に書き現はすが急務だ。

丸山氏は岩野のこの言葉と金田一アイヌ研究を次のようにまとめる。

アイヌにあれほど深くかかわっていく金田一が、啄木の困窮に経済的な援助を惜しまなかったにもかかわらず、アイヌの生活の困窮や不満について政治的にも社会的にもコミットメントしなかった根底に、この岩野の言明に忠実な金田一があることを確認しておこう。

金田一柳田国男折口信夫と関わる中でアイヌの「ユーカラ」を「叙事詩」と位置づけ、その研究に進んでいく。その間の事情について丸山氏は次のように述べる。

「古語」を求める金田一にとって「滅びゆくアイヌ」の現在である日常のアイヌ語は、「滅びゆくアイヌ」と同じく「国語」の研究には不必要なものだったのだ。ここに、金田一言語学者としての、そして、金田一の〈アイヌ〉学の方法の限界が明確にあるのだ。

この金田一の限界は金田一のみならず、多くのアイヌ認識にも通有する問題である。アイヌ問題を「過去にあったこと」と処理する姿勢は「滅びゆくアイヌ」という認識と表裏一体であり、この「滅びゆくアイヌ」という表象は今日でもアイヌ問題に言及する人々の間に決して珍しいものではない。「金田一の〈アイヌ〉学の方法の限界」は我々に今も突きつけられているのだ。