知里真志保『アイヌ語入門ーとくに地名研究者のためにー』

知里真志保は『アイヌ語入門』において痛烈なアイヌ学批判を展開している。それは多岐にわたり、非常に激越でもあるが、アイヌ学の方法論に対する次の言葉に注目したい。

アイヌの語原や語法というような学説的なことにまで、アイヌの古老のいったことだからといって、それに権威を認め、そのまま鵜呑みにしようとする非学問的な態度である。そのようなことが許されるならば、大学の講壇に高い(?)給料を払って学者を雇ってくる必要はない。英語学は英国の田舎から百姓爺を雇ってきて講義させればいいわけであり、国語学は日本の田舎から桶屋の爺さんでも雇ってくればいいのだし、アイヌ語学はトカチの老人でもビホロの老人でもいいわけである。

この批判は知里の面目躍如というところである。言語学的な方法論を使ってアイヌ語を分析していた知里にとって、言語学の基本をわきまえていなかった当時のアイヌ学の主流を批判するのはたやすいことであっただろう。ただこの問題が微妙な側面をはらむのは、主たる批判相手が河野広道であったことだ。
河野広道はもともと農学畑の昆虫学者で、樺太調査時に、当時樺太で女学校教諭をしていた知里と知り合う。敗戦直前に知里は研究に専念するために女学校を退職し、北海道立図書館郷土資料室で研究生活に入る。道立図書館郷土資料室は当時「浪人長屋」と呼ばれていて、知里や河野の他に高倉新一郎などアイヌ学を支えた人々が集っていた。そこで再開した知里と河野は親交を深めるが、二人の友情は1953年の日本人類学会・日本民族学協会第8回連合大会でこじれる。この大会はアイヌシンポジウムであったのだが、そこで知里が用意していた貞操帯を河野が借用して学会報告に使ってしまった。知里はこれでかなり気分を害したようである。河野からすれば親友の研究者の持ってきたアイヌ貞操帯を借りて言及した、ということなのだが、知里からすれば、アイヌである自分が持ってきたアイヌの物を和人が研究対象として取り上げてしまった、ということなのだ。知里が当時北海道大学講師というアカデミズムのアイヌ学研究者であると同時にアイヌである、という複雑な状況に置かれていたことに起因するだろう。もし知里が北大講師ではなく、一般人だったならば河野は知里の持ってきた貞操帯を気軽にその場で学会報告に使っただろうか。おそらくもう少し丁寧に対応したはずだ。一方知里アイヌではなく和人だったら、友人の報告に使われたからと言ってそこまで目くじらは立てなかっただろう。この二人の対立は「人食い論争」で決定的となる。
河野は「貝塚人骨の謎とアイヌイオマンテ」において「人送りとは、労働に耐えざる老人を、熊を送る場合に似た儀式を行って、オマンテするのであって、その肉は食料に供した」と書いていた。それに対する反論で知里は次のように記す。

ところで、この「人送り」の風習が果たして実在したかどうかについて、河野博士は“高倉新一郎君から聞いた”といい、高倉博士は“おれはそんなことをいった覚えはない”といわれる。してみると、これまた根も葉もないでっちあげであったわけである。いずれにしても、「人送り」などという、ありもしない風習や名称をでっちあげ、その名称の定義を述べ、行事のやり方から、発生の意義までも説くような、人を食った学者もいるのだから、アイヌ学界はこわいところである。

知里と河野の双方と仲が良かった山田秀三は「知里博士の『アイヌ語入門』」という次のように書いている。

先ず冒頭に近い部分で、Kという農学博士(河野広道さんにきまっている)に攻撃の鉾先が向けられている。河野さんがシルㇱキナ(草名)の語源解釈を誤った。またリㇺセ(踊りの名)を釧路ではルンセというと書いたのは誤りであるということなのであるが、この二つの言葉に付て8頁も使って、これでもか、これでもかという書き方。そしてわざわざゴシックにして「だからシロートはコワイ!」と言い放った。これではもう悪口である。
河野さんと私も親しい仲、彼カンカンに怒って、知里は人の資料を使って散々書いてきたくせに、無礼じゃないかという。この二人の優れた学者の仲を戻そうと思って喫茶店に誘ったが、両方とも私とは話すが、お互いは顔を向けようともしない。匙を投げたのだった。

これらの問題は、アイヌ研究に限らず、学問そのものに胚胎する問題でもあった。アイヌ学の場合、アイヌ語アイヌ文化はあくまでも学問の対象つまりインフョーマントであって、「アイヌとは何か」を記述するものだったのである。アイヌ自身の声が反映されることはなかった。知里東京帝国大学大学院修了で、北海道大学教授という肩書きを持つアイヌ学研究者であり、同時にアイヌというインフォーマントそのものでもあった。丸山隆司氏は知里を「語り出したインフォーマント」であり、学問する側はあくまでも内側に閉じこめようとする、としている。
河野と知里の関係が修復不可能になった背景には河野が知里アイヌということは知っていたにせよ、むしろ自分と同じアイヌ学の研究者である、と見なしていたことがあるのではないか、と私は思っている。河野にとって知里は自分と同じくアイヌ語アイヌ文化を研究対象として眺める立場であった。しかし知里にとってはアイヌは対象であると同時に、自分のアイデンティティでもあった。アイヌに対しいかなる形であれ劣等性を刻印する行為は知里にとっては許せないことであったに違いないのだ。
知里は自分の学問について新聞のインタビューで次のように語っている。

ぼくはぼくがアイヌ出身であるためにいろいろいわれてきた。たとえば、“君はアイヌ語と文化を内側から見てる。だから、我々と見解の相違があるのだ”なんておかしな話さ。君、学問は外側から見て記述し、内側にある真理をつかむのが本当じゃないか。内側から見なければ学問じゃないよ。ハハハ…、まあ、とにかくぼくはこのまま進むよりほかはないね。ぼくの学問的情熱がそうさせるんだから。啄木はないが“学問は悲しきがん具”さ。