アイヌとは何か

ここまで「アイヌ」という言葉をずいぶん蕪雑に使ってきた。しかし「アイヌ」とは何か、という問題が閑却に付されてはいけない。

同級生「知里君、北海道ならアイヌを見たかい」
知里真志保アイヌが見たかったら、このおれがアイヌだよ」

知里「なんで遠い北海道まできたの?」
少年「アイヌが見たかったから」
知里「ナニィッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」

この同級生は後に運輸事務次官を経て新東京国際空港公団総裁に就任する。エリートであったこの同級生にとって、第一高等学校の同級生にアイヌがいるとは夢にも思わなかったであろう。また少年にとってはまさか目の前の北海道大学教授がアイヌだとは思いもしなかったことだろう。おそらく彼らの頭の中にはアイヌに関する固定観念が存在していたのであろう。それは彼らだけではなく、今の我々にも存在している。アイヌを「原日本人」ととらえたり、縄文文化の末裔と捉えたり、エミシやエゾがアイヌであると捉えたりする見方はいずれもアイヌに対するステロタイプに満ちた見方である。
縄文人とはそもそも何なのか。言うまでもなく縄文土器を使っていた人々である。そして縄文土器は北海道から沖縄まで出土するので何となくプレ日本人という見方がなされている。しかしこれも当たり前だが、彼らに「日本」という意識はおろか、そもそも例えば北海道の縄文人と沖縄の縄文人の間に自分が同一の文化に属する集団である、という意識すらないであろう。後世の我々が縄目文様のついた土器を「縄文土器」と名付け、「縄文土器」を使っている人々を「縄文人」と呼称しているだけの話である。
その点を確認した上で、北海道の歴史区分をみていこう。北海道には弥生文化は根付いていない。本州以南で弥生時代と呼ばれる時代を「続縄文時代」と呼ぶ。その後本州文化の影響を受けた文化が6世紀以降に成立する。この時代を擦文文化と呼ぶ。擦文文化はしばしばプレアイヌ文化と呼ばれることがあるが、擦文文化は必ずしもアイヌ文化とストレートにつながらない。擦文文化と同時期にオホーツク海沿岸に存在していた文化をオホーツク文化と呼ぶ。大陸の靺鞨文化の影響を受けた文化である。
擦文文化の特徴を粗々記しておくと、主として河川沿いに竪穴式住居を構え、土師器や須恵器の影響を受けた擦文土器を作って暮らしていた。粟や稗の農業も営んでいた。一方オホーツク文化はオホーツク式土器を呼ばれる靺鞨文化と共通する土器を作成し、海洋文化で、豚の飼養を行い、熊やウミガメを祭る祭祀の跡が発掘されている。
大陸の変動により取り残されたオホーツク文化の末裔は擦文文化に飲み込まれたと考えられるが、道東の一部に出土するトビニタイ式土器はオホーツク式土器の特徴と擦文式土器の特徴を合わせ持つ土器で、その過程を示す土器として注目されている。
アイヌ文化の起源は明らかではない。おそらく擦文文化を母体にオホーツク文化の要素を取り入れる形で成立したのであろうが、アイヌ文化に入ると、何よりも交易社会となり、独自の土器を製作しなくなることと、住居が竪穴式住居から平屋式の住居に移り変わることにより住居祉が残らなくなることが大きな原因である。
このようにアイヌは日本史の枠組みのみで捉えることがそもそも誤っている。アイヌ史は日本史の部分史ではない。アイヌ自身の歴史を叙述する必要性がある。アイヌ史研究者の児島恭子氏は「エミシ・エゾはアイヌなのか?」という設問に対し「エゾはアイヌかという設問には、それ自体にアイヌ自身の歴史を認めない態度が内在しているのである」とまとめている。アイヌにはアイヌの歴史がある。そして何よりも我々が注意しなければならないのは、アイヌに限らず、先住民族は、古代の人々が化石化して現代に残っている人々ではない。彼ら独自の歴史を認めることから、彼らにまとわりつく表徴を解放する試みが始まるのだ。