エミシとは何か

アイヌ史をいかに記述するべきか。ブックマークにあった次の議論から説き起こしたい。id:m-matsuoka氏の「歴史は、物事を記録しておくという歴史文化を持つ民族にしかつくれないわけで、歴史文化をもたなかったアイヌの歴史を認めろというのは変。」というブクマ。氏の歴史とは何か、というのを聞きたい。少なくとも歴史学研究者の考える「歴史」とは全く違うものなのだろう。
私の所属する歴史学界の定義する歴史学における歴史叙述とは幾重にも限定を受けた文字資料を題材として、ある史観に基づいて過去を再構築する試みである、と考えている。歴史的現実はそれこそ無数にある。極端に言えば今起きていることも「歴史的現実」である。過去に起こった「歴史的現実」を叙述する時に残された痕跡から過去を復元するのが広義の歴史学である。その時に使う資料によって次の3つに分かれる。文字史料によって「歴史的現実」を復元するのが狭義の歴史学でこれを文献史学ともいう。考古資料によって復元するのが考古学である。民俗資料によって復元するのが民俗学である。さらに口承伝承を資料化する試みも行なわれている。例えばユーカラにおける「シサム」との交渉からアイヌ史を復元する試みが行なわれている。アイヌが「歴史文化をもたなかった」というのは無知に基づく差別認識ではあるまいか。そもそも私には「歴史文化」というのがよくわからない。少なくともアカデミズムの歴史学研究者の間で歴史文化の有無を以て歴史があるかないかを問題にする研究者を寡聞にして知らないのだが、もし知っているのであればご教示いただきたい。
自らの歴史を文字史料と言う形で残さなかったアイヌの歴史をどのように叙述するのか。私自身が口承文学を史料化する試みを行なっていないので、私自身の「限定」として周辺諸国の史料を題材にして歴史を叙述する他はない。さらに私自身の制約から、日本とアイヌとの関係史に限定される。
以上のことを確認したうえで、アイヌ文化成立以前の日本と東北・北海道の関係史をみていきたい。まずは6世紀以降に出現する「エミシ」と「日本」との関係である。
「エミシはアイヌか」という問いにそもそも差別性が含まれている。むしろその前に問われなければならない問いがある。そもそも「エミシ」とは何か。そして「征夷」とは何だったのか。俗耳に入りやすい見解として、日本全体、少なくとも関東まではアイヌがいて、それが大和朝廷による「征夷」事業でアイヌが北に北に追われていった、という議論がある。これは一見アイヌに対する「日本」国家の抑圧という図式で捉えられやすいために、主として左派系の歴史叙述に使われてきた。ただこの図式が多用されたのは1970年代で、それも歴史学研究者ではなく、活動家がプロパガンダのために作り出した歴史叙述である。ある意味「日本」の枠組みの中にアイヌを押し込めるものでしかない。
もちろん「エミシとはアイヌか」という問いは成立しない。そもそもアイヌ文化が成立する以前に「アイヌ」が存在するわけがないからだ。縄文時代の日本列島居住者を「日本人」とは言えないのと同様である。
エミシとは何か。そもそもこのエミシが他称なのか自称なのかも定まっていない。通説的理解ではこれは「辺境概念」である、とみる。つまり「中央」から貼られたレッテルだ、というわけだ。従ってエミシという実体は存在せず、エミシという表象のみが存在している、という理解である。それに対して自らもエミシ意識も持っていた、という説もある。墨書きで「夷」と書かれた土器が出土しているなどの事例がある。これをどう評価するかなのだ。
エミシ問題を考える際に一番注意しなければならないのは、近世以降のアイヌー和人関係をそのまま古代に持ち込んではいけない、ということなのだ。古代のエミシが化石化してアイヌになったのではない。そもそもエミシという実体があったかどうかすら不明であって、よしんばエミシという実体があったとしても、それがそのまま固定化して現在に残存するということもあり得ない。
エミシの初出は7世紀である。『日本書紀斉明天皇五年(659年)が初出で、この時期に阿倍比羅夫と粛慎との戦いが注意される。「粛慎」(みしはせ)とはそもそも何なのか、という議論がなされているが、現在これと言った通説はない。ただ「エミシ」とはまた違った集団であると考えられる。中国側の史料に「粛慎挹婁」という集団が存在し、「挹婁」とは「野老浦」と同じものを表すと考えられる。「野老浦」とは兀良哈(オランカイ)を指す。もし阿倍比羅夫が戦った相手の「粛慎」と「粛慎挹婁」が同じだとすれば、「粛慎」とは中国東北部を指す。つまり大陸からの勢力であったことがわかる。というよりもオホーツク文化と同じように大陸の靺鞨文化の影響下にある集団だったのだろう。靺鞨の中に「莫設靺鞨」というのがいて、その発音(もっせ)が「粛慎」(みしはせ)と類似することから、粛慎を莫設靺鞨とみる見解もある。つまり当時「日本」ではなかった北海道を「日本史」の枠組みだけでみてはいけないことを鮮やかに示している事例である。
当時北海道に居住していた人間集団は、南の日本の他に西や北の勢力の影響下にあったのである。さらに言えばこの頃には「日本」の枠組みが北進していた時期で、712年に出羽国が設置され、733年には出羽柵を飽田(秋田)に設置する。これが当時の「日本」の北限であった。「日本」の北限が北上すると、「日本」の外側に位置していた人間集団との緊張は高まる。774年には「日本」と境界を接していたエミシとの間に38年戦争が勃発する。
38年戦争におけるハイライトは伊治公呰麻呂(いじのきみ あざまろ)が多賀城を焼き払った場面と、太墓公阿弖流為が「日本」の軍勢を破った場面だろう。その危機に際し、桓武王朝は坂上田村麻呂を派遣する。802年には太墓公阿弖流為(たものきみ あてるい)が降伏し、翌年斬首される。805年桓武が死去し、征夷事業が中止される。それを受けて811年に文屋綿麻呂による終結宣言が出され、38年戦争は終わりを告げる。38年戦争の結果「日本」の境界は現在の北緯40度に沿う胆沢城と秋田城の間のラインに設定され、「日本」の北進は一旦停止した。
38年戦争は阿弖流為が犠牲にはなったが、「日本」の北進を一旦止めた、という大きな成果が得られた。この戦争が終結する以前は「日本」に編入された「エミシ」を諸国に「移配」する、ということが行われた。つまりは強制移住である。強制移住された「エミシ」の人々は「俘囚」と呼ばれ、移住先は西国を中心に35国にも渡った。逆に東北地方に「日本人」を移住させることも行われた。もちろんここでの「日本人」とは「日本国=朝廷」の支配下の人々のことである。しかし高コストであったため38年戦争末期にはエミシ有力者を登用し「公」の姓を与えてエミシ支配を委任することになった。伊治公呰麻呂や太墓公阿弖流為はそう言ったエミシの支配者だったのだろう。この体制を民夷両立体制と呼ぶ研究者もいる。この民夷両立体制の下で台頭してきた「エミシ」有力者が奥六郡の安倍氏であり、仙北三郡の清原氏であった。
このように「エミシ」の歴史を叙述すると完全に「日本」の部分史になる。これはある意味当然である。「エミシ」というのがある実体を表すのではなく、「日本」から見た「日本」の外部を示す表象だからである。「エミシ」というのはすぐれて「日本史」の問題なのだ。それとアイヌ史とは別物と考えるべきである。次回は民夷両立体制の崩壊と「エミシ」と「日本」の熾烈な戦い、そして「エミシ」が「日本」に併呑されていく過程をみていきたい。「エミシ」の併呑に大きな力を及ぼしたのが「軍事貴族」と言われる人々であった。