エミシの歴史の終焉

「日本」がその境界を北進させ続けたのは、北アジアの物品がほしかったからであろう。エミシは「日本」の北辺に位置する「日本」の外部であり、同時に北アジア交易ネットワークと「日本」との結節点に位置していたのである。我々はややもすれば北アジアの社会を「辺境」と捉え、生産力の劣った社会とみがちである。そして農耕社会が成立しなかった北アジア地域において交易ネットワークが成立していることに奇異な感想を持ってしまうかもしれない。一般に交易の「商品」は余剰生産物で発生するものであり、北アジアのように農耕社会が成立しない「遅れた社会」では自給自足の社会が成立していた、と考えがちである。
ハンガリーの経済学研究者のカール・ポランニーは『経済と文明』の中で、我々が「交易」という概念で捉えがちな経済的利益から離れた交易に着目する。それは異文化集団同士の安全保障のための威信財の交易である。異文化集団の間ではとかく文化摩擦が起こりがちである。そのため無用な争いを避けるためにしばしばとられた方法が沈黙交易である。これはお互いに姿を見せずに交易を行う方式で、栗本慎一郎氏が着目したアイヌコロポックル伝説は沈黙交易を表しているのだろう。さらに交易の規模が拡大し、ネットワークも複雑化してくると、沈黙交易からさらに発展した交易港交易と呼ばれる交易体制になる。絶対的な中立地としての交易港が設定され、中立権力である交易港管理者がその維持管理に当たる。絶対的な中立というよりは境界領域に成立する勢力がそれに当たることが多かったようだ。「日本」と北アジア交易ネットワークとの交易港交易を管理する交易港管理者は概ね北アジア的要素と「日本」的要素を持ち合わせている。「エミシ」でありながら「日本」から「俘囚長」として「エミシ」の首長に擬された安倍氏清原氏もその一類型であろう。奥州藤原氏津軽安藤氏が一方で「日本」との関係を喧伝しながらも北アジア的要素も主張するのは同じ事情があるだろう。松前氏も「日本」との関係を主張しながらも「蝦夷大王」といわれる側面を維持し続けたのである。
当時の「日本」側の窓口は秋田ー胆沢の北緯40度ラインにあった秋田城だったが、10世紀頃には青森湾の外ヶ浜に移り始めていた。その一方で陸奥国の太平洋側では4郡が廃止になるなど一進一退の状況が続く。このころ環濠集落あるいは防禦性集落と呼ばれる、集落の周囲に堀を巡らせた集落が登場する。これについては防禦のためという意見と宗教性から説明する意見があるが、いずれにせよ複雑な状況がこのころの陸奥国に存在したことは間違いがない。
こういう状況を打破するために「日本」は鎮守府将軍軍事貴族を積極的に起用し、さらに本来文官が起用されるはずの行政官僚である陸奥守にも軍事貴族を起用するようになる。そして奥六郡の俘囚長安倍頼時対策として起用されたのが河内源氏源頼義であった。
当時王朝の武力を担当していたのが軍事貴族と呼ばれる人々である。受領として諸国の国司を務める間に国衙の軍事力を掌握し、私兵に組織するなどして私的な武力を蓄え、組織された武力で王朝国家に仕えるようになる。源頼義清和天皇の孫の経基王に始まる清和源氏の傍流河内源氏源頼信の嫡子で、本流の摂津源氏源頼光の甥に当たる。こういう軍事貴族には他に桓武平氏高望流や秀郷流藤原氏がいた。源頼義平忠常の乱の平定で功績を挙げ、鎌倉に本拠を構えて東国に勢力を扶植していた。
安倍頼時と頼義の戦いは現在「前九年の役」と呼称されるが、この戦闘において注目されるのは藤原経清の動向である。経清は陸奥国の在庁官人と考えられ、頼時の娘婿となっていたが、頼義との戦闘においては当初頼義に従っていた。しかし義弟の平永衡が頼義に殺されたことを契機に義父の頼時に従い、頼時死後も安倍貞任とともに頼義に抵抗を続け、最後には貞任と経清が処刑され、戦乱は終結した。
この戦乱の帰趨に大きな影響を及ぼしたのは仙北三郡の俘囚長清原武則の協力であり、最終的に「日本」が選択したのは頼義に鎮守府将軍の職を続けさせるのではなく「エミシ」の清原武則鎮守府将軍に任命することであった。ここに「エミシ」出身の鎮守府将軍が登場することになる。
武則の死後武貞、真衡と続くが武貞の子どもの構成は複雑であった。長子真衡は父が武貞で、母が先妻、次男清衡は武貞の実子ではなく、後妻の連れ子であった。さらに後妻と武貞との間に生まれたのが家衡であった。何よりも後妻は安倍頼時の娘で刑死した経清の妻であった。つまり清衡は経清の遺児だったのである。
真衡の死後、清衡と家衡の衝突が起こり、当時の陸奥鎮守府将軍源義家清原氏の内紛に介入する。最終的に勝利を得た清衡は義家の影響力も排除し、さらに亡父経清の姓を継いで藤原となる。ここで清衡が清原ではなく藤原を選んだのは、「日本」の外部たる「エミシ」ではなく、「日本」の内部を自己認識として選択したことを意味する。東北地方は「エミシ」と「日本」が併存する「民夷両立体制」の地であったが、奥州藤原氏による覇権の掌握は「エミシ」の地としての終焉を意味していた。それまで「エミシ」の地とされてきた北緯40度以北の地域も一気に「日本」に編入され、3代目の秀衡の代には陸奥守・鎮守府将軍陸奥国押領使出羽国押領使を兼帯して、事実上陸奥・出羽両国をあたかも独立地域のように統治する。
従来「エミシ」の地であった北緯40度地域も「日本」に併呑した奥州藤原氏ではあったが、同時に安定した独立的な政治勢力の成立は同時に南からの影響から北アジア交易ネットワークを守る働きをした。津軽は未だ「日本」ではなく、さらにその北に広がる広大な北アジア交易ネットワークにつながっていた。北アジア交易ネットワークに深刻な影響が及ぶのは、奥州藤原氏が滅亡し、東北地域が完全に「日本」に編入され、さらに北条得宗家直轄地として「植民地」化されてからである。