「征夷」の原像

幕府の首長はなぜ「征夷大将軍」なのだろうか。本郷和人氏の言う通り鎮守府将軍でも征東将軍でも都督でもよかったのだろうか。結論から言えば確かに武人に対する指揮権を象徴する「将軍」という称号であれば何でもよかったのだろう。頼朝が「征夷大将軍」を選択したのは、おそらくは「将軍」の中でも一番格が上だったから、ということになろうか。
頼朝が奥州藤原氏征伐をどのように位置づけていたのか、については諸説がある。私はこれは一種のセレモニーであったと考えている。源平合戦はセレモニーにするには大きすぎる戦いであった。勝つか負けるかという激越なる戦争の中では武家の棟梁であることを誇示することは出来ない。そもそも頼朝が武家の棟梁になるには源平合戦を勝ち抜かなければならないのだ。源平合戦を勝ち抜いた頼朝にとって、武家の棟梁であることを示す絶好の機会が奥州藤原氏討滅であった。義経を匿った罪は言いがかりに過ぎない。藤原泰衡義経の首を差し出した段階で義経問題を理由にした奥州藤原氏の討伐はその存在意義を失っているからである。奥州藤原氏を討伐し、東国における覇権を確実にすることは必要だったのだが、頼朝はそれには大げさすぎる舞台装置を用意していた。頼朝自らの出陣である。実際に奥州藤原氏を滅ぼすだけであれば代官で十分である。畠山重忠で十分だろう。あえて出陣したのは奥州藤原氏平氏よりも強大であったからではない。これがセレモニーであったからだ。セレモニーとしての奥州藤原氏征伐では、頼朝自らの出陣の他に、南九州に至るまでの「日本」全国に及ぶ動員がかけられている。頼朝は「日本」の武力と威信を「エミシ」に見せつけたのである。さらに不参者に対する処罰も行われた。頼朝が「日本」の武力を制圧したことを「日本」にアピールしたのである。源平合戦における囚人も参加し、参加することで赦免された。源平合戦を総括し「御家人」の統括を天下に明示したのである。これを契機に軍兵注文(リスト)が作成された。これらの一連の動きは、内乱の中で成立した武家権門としての自己の地位を、単なる一権門としての地位を超越した全国政権に高めるために必要なセレモニーだったのである。そしてそのセレモニーの相手として選ばれたのが奥州藤原氏だったのだ。
頼朝は頼義故実に則って奥州合戦を遂行した。頼義の部下であったにも関わらず裏切った藤原経清の子孫の藤原泰衡を、頼義の子孫の頼朝が討伐する。武家の棟梁となったことを示すセレモニーとしてこれ以上の舞台装置はない。そして頼朝が征夷大将軍を多少なりとも意識したとすれば、征夷大将軍が、他ならぬ秀衡が任官していた鎮守府将軍の上位に位置する、という事情はあるだろう。ただ1192年段階では「征夷大将軍」である必然性もなかった。彼が征夷大将軍よりもむしろ「前右大将家」の肩書きを使ったのにはそのような事情はあるだろう。
従って本郷和人氏が主張するように殊更に「征夷」にこだわる必要はないと、私も考える。それ以降の幕府の将軍が「征夷大将軍」であるのは、多分に惰性であり、それこそ征東将軍でも征西将軍でも鎮守府将軍でもよいのだ。ただ頼朝が「将軍」を意識した時には秀衡を超越する征夷大将軍がほしかっただけで、奥州藤原氏滅亡後は、「征夷大将軍」である必然性は消滅しており、惰性で「征夷大将軍」が選ばれたのだ。極端な話を言えば懐良親王の「征西将軍府」も「九州幕府」だろうし、足利基氏の子孫の「鎌倉府」も「足利氏鎌倉幕府」と言えるだろう。
奥州藤原氏滅亡の影響は大きかった。「日本」と北アジア交易ネットワークの緩衝地帯として機能してきた奥州藤原氏が滅亡したことで、北アジア交易ネットワークは「日本」と直接対峙することになった。北海道の渡島半島奥州藤原氏の残党も流入してきただろうし、津軽を支配した北条義時の被官である津軽安藤氏が津軽半島を挟んだ地域に影響を及ぼすようになった。「エミシ」の地は消滅したのである。そして擦文文化の荷負集団は北上を始める。その中で北海道北部や東部のオホーツク文化と融合しながら、アイヌ文化へと変貌を遂げるのである。擦文文化を母体にしてオホーツク文化と融合しながらアイヌ文化が成立する過程は、現在十分な考古学的裏付けがあるとは言いがたい。史料の波間に浮かんで消えるこの時期の北アジア交易ネットワークを構成した人々に注目しなければならない。結論から言えば「アイヌ」の他称である「クイ」と呼ばれる集団は13世紀に入って見いだされる。13世紀の中国史料に現れる北アジア交易ネットワークの人々は次の人々である。
まずは「乞烈迷四種」と呼ばれる人々。彼らは概ねアムール川の河口域からオホーツク海北岸付近に居住した人々と考えられる。中でも「乞里迷」(ギレミ)と呼ばれる人々はアムール川にアムグン川が合流する奴児干の地周辺に居住していた人々で現在のニヴフにつながる人々であろうと考えられている。「女直野人」と呼ばれる人々は満州女直あるいは兀良哈(オランカイ)と呼ばれた人々である。「北山野人」はトナカイを飼養していた古アジア系の騎馬民族と考えられ、今日のエヴェン・エヴェンキにつながる人々と考えられる。「又一種」とあるのは、その独特の住居形態からオホーツク海北岸からカムチャツカ半島に居住していた人々とみられる。アムール川河口域の「四種」以外では「苦兀」(クイ)と呼ばれた人々は北海道に居住していた。そしてカラフト北部には「吉里迷」(ギレミ)が居住していた。そして「苦兀」と「吉里迷」の間には「亦里于」という、現在のウィルタにつながる人々が居住していた。彼らは周辺諸国と交易を取り結びながら、それらを中継する働きをしていたのである。「日本」も「エミシ」を介して彼らから鷹の羽や毛皮を入手していた。13世紀、彼らを取り巻く環境は激変していた。南では緩衝地帯として機能してきた「エミシ」の地が消滅し、北ではモンゴル帝国による交易ネットワークへの介入が始まっていた。
彼らはやがてフビライ関わる形で史料に登場する。次回は北アジア交易ネットワークを構成していた集団と元との関係を見ていきたい。