アイヌ「蜂起」の意義

江戸時代に起きたアイヌの大規模な蜂起はシャクシャイン戦争とクナシリ・メナシの戦いであろう。
これらに共通するのは、極論すれば「商売の上手な和人が,商売の下手なアイヌ人に怨まれた、それだけの話」である点である。その証拠に松前藩の武力介入がある以前にはアイヌの犠牲者はほとんどおらず、和人がもっぱら襲撃されている。松前藩の武力介入もいきなり武力介入するのではなく、アイヌ側と交渉して切り崩しを計っている。やみくもな弾圧は行っていない。その背景には一つには松前藩の武力があまりにも貧弱な点が挙げられるだろう。もう一つは松前藩はそれではアイヌとの関係が自己の存在意義であることを熟知しており、アイヌから見放されれば、松前藩もまた存在しえないことを意識していたからであろう。
シャクシャイン戦争においては江戸幕府松前藩も、アイヌの「暴動」の背景にあるアイヌの不満を意識していた。「商売の上手な和人が,商売の下手なアイヌ人に怨まれた、それだけの話」とすげなく切り捨てる愚は犯さなかったのである。アイヌの不満は和人が大量に流入してきてアイヌの生活環境を侵すことだったのである。アイヌは和人全てを否定したわけではなかった。シャクシャインの娘は和人の庄太夫に嫁いでいる。そして彼はシャクシャインを助けてこの戦争を遂行している。
シャクシャイン戦争の後始末は以前にも二度にわたって述べたが、アイヌの不満をすくい上げる形で行われている。我々は松前側に残された起請文の内容に目を奪われるが、その中身はアイヌの不満に対処するものだったのだ。鮭と米の交換比率の固定や、和人の人数制限など、アイヌの生活や文化を侵さない配慮が行なわれた。これはシャクシャイン戦争の大きな成果である。こういう「暴動」の背景に目を向けずに単に「暴動」としか評価できないようでは、およそ為政者としては失格である。
為政者としての資質が問われたのがクナシリ・メナシの戦いにおける松前藩であった。飛騨屋はもっぱら「商売の上手な和人が,商売の下手なアイヌ人に怨まれた、それだけの話」に持っていこうとした。松前藩は飛騨屋がアイヌを抑圧し、アイヌの憤懣を買った、とアイヌに同情的な主張をした。今日我々がクナシリ・メナシの戦いを見る時に依拠するのはもっぱら松前藩の主張である。場所請負制商人の飛騨屋が商売でアイヌを騙したり、暴力を振るったりして、アイヌを酷使してきた。それでアイヌが反発し、蜂起した。松前藩はこういう図式を主張することで責任を飛騨屋にすべて転嫁した。しかし江戸幕府松前藩の姿勢も問題視していた。松前藩はそのころ「場所」の管理を全て民間に丸投げしていた。それが問題視されたのだ。
その後、江戸幕府松前藩アイヌを「文明」から遠ざけることを問題視する。要するに松前藩アイヌの文化をそれとして尊重し、アイヌの生活基盤を尊重する(当時の史料では前者を「夷次第」、後者を「自分稼」と呼んでいる)姿勢を江戸幕府は糾弾したのである。江戸幕府にとってアイヌは文明から遠ざけられた人々なのだ。江戸幕府アイヌに対し「介抱」を行う。それはアイヌを「野蛮」の域から解き放ち、「文明」社会に引き上げてやることであった。そこではアイヌ文化は克服されるべき「因襲」として語られる。そしてもう一つ重要なことは、「文明」化は「生産力」の増大を意味していた。松前藩が漁具を制限し、アイヌの「自分稼」の原則、つまりアイヌの生活基盤を侵さないようにしていた配慮も撤廃される。和人による大規模漁業が持ち込まれ、アイヌモシリの環境が破壊されることになる。しかし江戸幕府からすればそれは「大量の和人がアイヌモシリへ入植し、彼らは豊かなチベット人と交易を行い、物資や漁具をもたらすことで生産性が段々上がってきた」ということになるのだろう。その中で少数者に転落したアイヌは急速に人口を減らしていくことになる。
アイヌ問題に関して言えば、現在ネットで語られるアイヌ史の流れは概ね次のようになるだろう。古代に関しては「エミシ」を無媒介にアイヌと結びつけて朝廷の征夷事業を「アイヌ侵略」と決めつける。そこにはエミシが化石化してアイヌになる、というアイヌに対する後進性の押し付けがみられる。中世に関して言えば松前藩成立期にアイヌとの戦いを記述した『新羅之記録』に全面的に依拠し、アイヌ松前藩の詐術に引っかかる「愚民」として扱う。言葉遣いを「剛毅だが純朴な人々」とすればむしろアイヌに同情的なふりをすることもできる。近世のシャクシャイン戦争に関しては江戸で流行した英傑シャクシャインとしてオリエンタリズムを多分に交えた視線で再構成された歴史像を無批判に受容し、オリエンタリズムへの要求を満足させる。クナシリ・メナシの戦いはもっぱら松前藩の言い分のみを採用し、場所請負商人に全ての責任を転嫁する。幕領化以降は函館奉行を務めた羽太正養や函館奉行の雇であった松浦武四郎の「抑圧される」アイヌ像を基にする。1990年頃までの歴史学もその図式を引きずっていた。今でも引きずり続ける研究者もいる。そういう研究者からは従来の歴史像を相対化する試みは頭から否定される。ネット上で広められているアイヌ像も概ね「オリエンタリズム」の視点からゆがめられている。そういう現状に対する意義申し立てとして一連のエントリを書いてきた。