蠣崎からマトゥマイへ、そして松前へ

松前藩の祖先がマトゥマイの当て字松前を名乗るのは慶広の代である。それまでは蠣崎氏を名乗っていた。蠣崎からマトゥマイへ、何があったのだろうか。
蠣崎氏が歴史の表舞台に姿を現すのは蠣崎季繁の時である。どこから来たのかは全く不明で、下北半島に「蠣崎」という地名があるので、そこを名字の地としている可能性はある。蠣崎季繁が活躍した15世紀には下北半島は南部氏の支配下にあった。蠣崎季繁は南部氏の配下にあった、と思われるが、「季繁」という名前からは安藤氏との縁も考えられる。そのころ下北半島の田名部には潮潟安藤氏の政季がいたので、その関係も考えられよう。潮潟政季は下国氏滅亡の時に南部氏の捕虜となり、南部氏から田名部を知行地として与えられていた。後に南部氏から脱出して下国氏を名乗るようになる、と考えられている。政季と行動を共にしたと考えると、季繁の北海道との関わりは1550年代ということになる。政季は自分の麾下の武将を道南各地に配置した。季繁は上之国守護に任命されている。いわゆる「守護」に任命されたのが「松前守護」の下国定季、「下之国守護」の下国家政であることを考えると、季繁も下国政季とは深い関係にあったのだろう。家政は政季の弟で、季繁は政季と古くから行動を共にしていた。問題は定季である。定季は下国康季の子どもである。下国氏嫡流は義季が戦死したことで絶えた、と言われているが、実際には定季と恒季親子がいた。つまり政季は定季を差し置いて下国氏を継承したわけである。定季と政季の関係はいささか微妙にならざるを得ないだろう。一説では三守護ではなく、定季が守護として道南を統括した、ということである。
コシャマイン戦争で活躍した武田信広もどこから来たのかが不明である。武田信栄の遺児で武田信賢の養子になった、という説もあるが、裏付けは全く取れない。昆布の流通に携わっていた商人という説もある。蠣崎季繁の配下にいて勝山館を任されていた、ということしかわからない。コシャマイン戦争で活躍して季繁の婿養子になり、季繁の跡を継いだ。しかしその時に「信広」という名前を変えていないのがいささか気にかかる。
二代目光広の代にはアイヌに落とされていた松前に入り、上之国守護と松前守護をかねる。この動きがかなり不明瞭である。松前守護の変転を見ていこう。
松前守護は下国定季から下国恒季に継承されたが、恒季の代に政季のあとを継承した忠季の命により討伐され、下国氏の正嫡は絶えた。下国氏を簒奪した政季流が本来の下国氏の流れを引く定季流を滅ぼしたのである。その後松前守護を継いだのは相原季胤である。「季胤」という名前からみて彼もまた下国氏の偏諱を受けていることがわかる。季胤はアイヌの攻撃を受けて滅亡するが、その後蠣崎氏がアイヌの代わりに松前に入場する。ただ相原氏に伝わる伝説ではアイヌと蠣崎氏が組んで相原氏を滅ぼした、ということであり、実際松前藩史書でもこの辺の細かい経緯は描写されていないことから、松前藩にとってはあまり残したくない伝説であったのだろう。
光広の跡を継いだ義広の代にはアイヌの反乱を抑えた、とされている。
その子の季広の時にアイヌとの和睦が成立し、シリウチのチコモタイン、セタナイのハシタインに「夷役」を配分し、道南における和人地が確定した、とされる。
季広の子の慶広の代に松前氏を名乗り、下国氏の支配から自立する。慶広が豊臣秀吉の配下に入った時に父の季広は「天下の直臣」となったことを喜んだと言う。
いくつか疑問がある。松前守護を獲得した時のことだが、相原季胤滅亡の背景に蠣崎光広の謀略があるのはすでに指摘されている。下国尋季も疑ったようで、光広の松前守護就任はあっさりとは認められていない。実際にアイヌと組んで松前守護を手に入れたのであろう。
今「松前守護」とあっさりと書いたが、そもそも「松前氏」の名跡が「松平」と「前田」から字を採ったとすれば、「松前」はおかしいのではないだろうか。もし「松前」が「松平」と「前田」から採られたのであれば、当時「松前」という地名は存在しないはずだ。松前ではなく「マトゥマイ」だったのだろう。そしてさらに言えば下国定季は政季や季繁がアイヌモシリに入ってくる以前からその地にいて支配していたのだとすれば、定季流が後からやってきた政季流に滅ぼされたことは、以前からアイヌモシリにいた勢力にとってはそれこそ「和人の侵略」に映ったであろう。相原季胤はその象徴としてアイヌの攻撃の対象となったのに相違ない。そしてアイヌのあとに入った蠣崎氏が松前に入った経緯が不明なので、そこは何とも言いようがない。ただ「蠣崎」自体も政季と同時に東北からやってきた一族であるとすれば、それも侵略と移ったかもしれない。義広の代に起こった大規模なアイヌの抵抗の記録はそれを暗示しているのかもしれない。ただこの抵抗の記事は『新羅之記録』に記されたことであるので、必ず正しいとも言いきれない。
季広に行く前に私にはどうしても解けない謎がある。なぜ蠣崎氏は信広以降の通字が「広」なのだろう、という疑問である。当時道南の勢力の多くが「季」を通字にしている。「季」の字は言うまでもなく津軽安藤氏とその子孫に伝えられた字で、当主は概ね「季」の字を下につける。例えば「下国康季」という具合である。これは鎌倉末期に「宗季」が出て以来のことである。宗季は当初は「季久」と名乗っていて、一族の季長と鎌倉末期にアイヌを巻き込んだ大規模な騒動を起こしている人物である。鎌倉幕府は季久を当主と認め、季久はさらに宗季と改名して下国氏の基礎を形づくった。その後は高季、法季、盛季、康季、義季と続く。一方「季」の一字を拝領するものは「季」の字を上につける。蠣崎季繁や相原季胤はその例である。なぜ信広は季繁の名前を受け継がなかったのだろうか。信広の跡を継いだ光広はなぜ「季」ではないのだろう。
手がかりは「広」の通字が「季広」から「慶広」「公広」と続くことであるが、着目したいのは「季広」である。季広は「季」と「広」を両方とも持っている。想像をたくましくすれば、松前氏が「広」を通字とするのは、季広の子の慶広からではないだろうか。「季」を放棄したのは、慶広が下国氏から自立したという自己認識の現れではないかと思うのだ。私は季広以前の系譜を採りあえず後世の創作と考えても差し支えないとすら考えている。普通に考えれば彼らもまた「季」の通字を持っているはずである。
蠣崎の姓を放棄して松前(マトゥマイ)を名乗る時に「季」の字を捨て「広」の字を使ったのは、明らかに下国氏の配下から自立することの宣言であった。蠣崎氏も、その主筋に当たる下国氏も「蝦夷」出自系譜を持つ「蝦夷」系の勢力であり、いわゆる「渡党蝦夷」の一員である。実際の彼らの人種的な位置づけがどうなるのかは不明だが、自己認識においては「蝦夷」と和人との「両属性」を持つ「境界権力」であり、「マージナルマン」であった。その時にどちらに軸足を置くか、という問題があるのだが、「蠣崎」を名乗る以上は、当時出羽国檜山に本拠を持つ下国氏の影響下にある、つまり和人側に軸足を置いたスタンスであった。蠣崎を捨て「マトゥマイ」を名乗るということは、和人寄りのスタンスを改め、アイヌ側に軸足を置いたスタンスを採ると言うことである。慶広が「季」の字を継承しなかったのも、彼の自己主張を表す小野だったろう。そう考えてくると慶広が九戸政実の乱にアイヌ軍を率いていた経緯も理解できるのである。和人の松前慶広がアイヌを率いていたのではない。「松前慶広」軍は正しくはマトゥマイン軍だったのだ。1599年にはマトゥマインの当て字の「松前」の姓を徳川家康から認められる。
その流れで把握すると松前公広の「マトゥマイは日本ではない」発言もすんなり理解されるのである。しかしその時代は短かった。江戸幕府が日本型海禁・華夷秩序を作り上げていく過程でマトゥマイ氏にも態度決定が要求されるのである。1639年にはキリシタン禁令に踏みきり、それまで合法的に居住していたキリシタンを処刑した。「マトゥマイ」は「日本」になったのである。そして「マトゥマイ」は「松前」となり、アイヌ的な要素を急速に消し去り始める。公広が死去した1643年に完成した『新羅之記録』は松前氏がいかにアイヌと戦って来たかを誇る書物となっていた。松前氏がマトゥマインであった記憶は消し去られたのである。