近衛基平とモンゴルからの国書

文永五(1268)年二月八日。左大臣近衛基平はその日記『深心院関白記』に次のように記す。

天晴、早旦以勅書有召。仍参院。今日異国事可有評定云々。牒状、高麗取進蒙古国牒也。仍其牒二通也。称和親之義。委見牒状、此事国家珍事大事也。万人驚嘆之外無他。前博陸両人参向其座。無骨。仍余参内。入夜又帰参院

読み下し。

天晴れ、早旦勅書を以て召あり。仍て院に参る。今日異国の事評定あるべしと云々。牒状、高麗が蒙古の国牒を取り進む也。仍て其牒は二通也。和親之義を称す。委しく牒状を見るに、此事国家の珍事大事也。万人驚嘆之外無也(大日本古記録には「他」とあるが、多分「也」の間違いではないかと思う)。前博陸両人(一条実経二条良実)其の座に参向す。無骨。仍て余も参内す。夜に入りて又帰り、院に参る也。

「院」は後嵯峨上皇。当時の治天。天皇亀山天皇。「異国事可有評定」の「異国」とは「高麗」「蒙古」。そこから「牒状」が来た、ということである。この「牒状」は結構有名で、フビライが日本に送った書状のことである。あとは高麗国王の元宗からの書状もあった、ということになる。一般にフビライからの書状に関しては「至用兵夫孰所好」(兵を用いるに至っては、だれが好むところであろうか)という文言が注目されて恫喝であるように見られがちであるが、基平は「和親之義」に着目している。フビライの書状を「恫喝」と見るのは後世の後付けであろう。当時の人々は必ずしも「恫喝」ではなく、むしろ「和親」を求めているように読めたのである。ただそれ自体が「国家珍事大事」として扱われたのは、当時の朝廷の対外観が大きく作用していただろう。基平が気にしていたのは一条実経二条良実が参内していることに「無骨」と不快感をあらわにする。
この結末もけっこうその筋では有名で、基平は断固反対するのだ。
問題はなぜ基平が反対したか、だ。そして基平の反対はどのように評価されるべきか、である。この二つの問題を少し考えてみたい。