近衛基平とモンゴル国書2

まずは基平がフビライからの「和親」の国書に対して拒絶を答申した事情をみておこう。
結論から言えば二月十九日条には次のようにある。

今日余注申日来異国之沙汰議奏之趣、不可有返牒之由所存也。

要するに国書への「返牒あるべからず」ということである。そこに至るまでの経緯をみると、十日には「異国事返牒有否、有沙汰、前博陸両人参」とある。前博陸両人とは一条実経二条良実に他ならない。「如此重事不参之条、不可然之故也」ということで、彼らが重大事に臨んで出ないわけにはいかない、と言っていることがわかる。おそらくは実経と良実が一緒になって何らかの工作を行なっていたのだろう。そしてそのことに関しては基平は早くから「無骨」と批判しているが、十四日になると「近日前官人々競出仕、頗無先規歟」と実経と良実の出席に不満をもらしている。
十七日条を少し詳しくみておこう。

依召参院。異国返牒有無有沙汰也。一条前関白(実経)・花山院大納言(師継)・右大将(花山院道雅)・中納言入道(葉室定嗣)・帥(吉田経俊)・左大弁(源雅言)等人々注申所存。二条前博陸(良実)・徳大寺入道相国(実基)以下伺候人々也。但余(近衛基平)並一条前博陸未注進。

非常に気になるのが基平と実経が「未注進」であることだ。その二日後に基平は「不可有返牒」という注進を行なうのだが、実経はどういう意見だったのだろう。今はそれを確定することはできないが、可能性として考えられるのは、実経と良実は返牒すべしという意見だった、ということだ。基平が実経と良実にかくまでも反発するのは、基平の意見と実経及び良実の意見が異なっていたからだと考えられる。
そのことを検討するためには基平と実経・良実の関係を検討する必要があるだろう。もしもともと基平と実経・良実が不仲であれば、意見の相違以前に前官である実経と良実がでしゃばることを嫌うはずだからだ。
そこでまずは近衛基平一条実経二条良実との関係をみておきたい。
近衛基平の先祖と一条実経及び二条良実の先祖は確かに源平合戦の時に対立していた。近衛は後白河に、一条・二条の先祖の九条は頼朝にそれぞれ与していた。その対立の再燃とみる見方も存在する。しかし鎌倉時代の複雑な政治過程は単純に九条対近衛の対立には解消できない問題をこの両者の間に残したのだ。
基平の母は九条道家の娘である。実経と良実は道家の息子である。つまり実経と良実は基平の伯父になる。そして実経と良実はもともと対立していた。この両者の対立も九条家がたどった波乱の歴史に起因する。
九条道家二条良実を重用せず、一条実経を愛する。そして良実の関白を実経に代えてしまう。しかしその頃道家と北条得宗家との関係も悪化している。四条天皇が急死した後、道家は自分に縁のある忠成王を皇位継承者として推す。しかし忠成王の父が順徳院であったことから北条泰時の警戒する所となり、九条家に対する北条得宗家の感情は悪化した。道家の息で鎌倉幕府4代目将軍となっていた九条頼経の存在も幕府との波乱要因となっていた。頼経が政治的勢力として成長する一方、北条泰時の後に失権となった北条経時は若年で、得宗に反感を持つ名越流北条氏が頼経に接近する。1244年頼経が退位し、頼嗣が5代将軍となる。頼経は大殿として反得宗の勢力を糾合しはじめる。道家もその背後で反得宗の動きを活発化させる。このような中で道家に疎んぜられた良実は得宗に接近する。
1246年、北条経時が死去し、5代目の執権となった北条時頼は頼経と名越光時の謀反計画を未然に阻止し、光時を伊豆に配流、頼経を京都に送還する。道家の失墜は明らかとなった。宝治合戦を経て主導権を握った北条時頼安達泰盛は頼嗣を送還し、代わって後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を6代将軍として迎える。道家は完全に失脚し、頼嗣が京都に到着するころに急死する。道家は死の前々日に良実を完全に義絶する。良実と実経が和解するのは1265年に良実が実経に関白を譲った時であろう。実経に関白を譲る一方、良実は内覧の宣旨を賜り、大殿として実験を握る。その背景には近衛基平のスピード出世があるだろう。1263年、18歳の基平が一上(いちのかみ)に任ぜられる。16歳で右大臣になっていた基平は、左大臣の実経を差し置いて一上という公卿の筆頭となっていた。蔵人所別当をかねるこの地位に就くことは、朝廷の実務を基平が押さえたことを意味する。さらに言えば本来「一上」というのは左大臣の別称であり、左大臣が摂政や関白を兼ねることになって一上の職務が出来ない場合に右大臣が一上になるのが通例だったのだが、左大臣の実経は当時摂関ではなかったので、一上には何らの支障もなかったにも関わらず、一上は23歳も年少の右大臣基平に任されたのである。実経の左大臣は飾りものでしかなく、当時の朝廷を主導していたのは基平であった。1265年には基平が20歳の若さで左大臣に就任し、1267年には関白・氏長者を兼ね、内覧の宣旨も賜る。
実経と良実が長年の対立に終止符を打って和解した背景には基平の存在があったことがうかがえるだろう。そのような実経と良実の動きに基平もまた神経をとがらせたに違いない。基平の実経・良実に対する批判的な言辞は、実経と良実の基平への反感の存在を裏付けるものなのだ。
それでは基平はなぜフビライの国書に返牒を出すことに反対したのだろうか。その問題を考えてみたい。