近衛基平がフビライの国書を拒否した理由

フビライの国書がやってきた時、朝廷の抱いたであろう印象は今日我々が抱く印象と相当異なっているようだ。近衛基平の日記からその印象を抜き出してみよう。
まず文永五年閏正月十八日条には「異国賊徒可来我朝之由風聞」とある。二月四日条には「異国賊徒間事、其説頻也」と記す。この間モンゴル使者のことを「異国賊徒」と記している。しかし二月五日条になると「異国事従関東可有使者」とあり、「異国賊徒」から「異国」となっている。それ以降「異国賊徒」という言い方は姿を消し、「異国」
とする。二月七日には「東使今日向相国禅門北山亭云々。異国間事也」とあって、ついに鎌倉幕府からの使者が関東申次西園寺実氏の邸に入ったことが記されている。そして二月八日条に続くのである。そこでは「称和親之義」という認識が示されている。つまり基平が注目したのは「恫喝」的な文言よりも「和親」の文言であったのだ。それを受けてなお基平は返牒に反対をする。返牒をしないことは一種の宣戦布告である。仮にフビライの申し出を断るにしても穏便に断る方策もあったが、基平が主張したのは最も強硬な処置であった。しかしそれは朝廷全体の意思では必ずしもない。基平の死後、朝廷はフビライに返牒を出す方針に転換する。それも三別抄からの反モンゴルの連帯の呼びかけには無視する一方で趙良弼には返牒を検討するのは、朝廷はフビライとの和親すら視野に入れていたと考えることすらできる。その点は後で検討するかもしれない。
朝廷がフビライに返牒を出すことを決定するのは、基平の死後、基平の方針が覆されたのは、基平の意見が朝廷の多数派ではなかったことを意味していよう。おそらくは実経や良実は返牒を主張していたのではないだろうか。とすれば朝廷の多数派は実は返牒に傾いていた可能性は高い。基平は固まりかけていた返牒方針を覆したのである。基平が前官であった実経や良実の出席に嫌悪感をあらわにしたのは、基平が実経と良実を動きを快く思っていなかったからだろうし、実経と良実が派手に動いたのは基平を牽制しようとしたからと考えられよう。フビライの国書への対応をめぐって朝廷は二つに割れていたのである。
結局基平が実経や良実を押し切り、返牒しないという方針を決めたのであるが、これは以降の幕府の対応を規定した。朝廷が返牒を企図しても幕府は先例を盾に返牒を拒絶する。返牒が行われない結果、日本はモンゴル帝国と戦うことになるのである。
基平はなぜ返牒を拒否し続けたのであろうか。おそらくは幕府の意向が働いていたのであろう。というのは朝廷の返牒拒否の方針を受けて幕府は素早く異国警固の方針を定め、二月二十七日付けの関東御教書を出している。朝廷でも異国降伏の祈祷などを行う準備を進める。朝幕一致して臨戦態勢に突入していくのである。
ということは基平の強行姿勢は幕府の意向と一致していることになる。フビライ国書は太宰府から一旦鎌倉に送達され、そこから京都に送達された。おそらくは鎌倉幕府の意向は決まっていて、朝廷は鎌倉幕府の意向に従うか否か、という決断が迫られていたのであろう。そして基平は鎌倉幕府の意向を実現させるべく動いていたことになるだろう。
鎌倉幕府と基平の関係はどのようなものであったか。実は浅からぬ因縁がある。基平の姉の宰子は鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に嫁ぎ、7代将軍惟康王を産んでいる。文永三年には宗尊親王は謀反の噂を立てられ将軍位を廃され、京都に送還されていた。宗尊親王が政治的勢力として成長することを恐れた幕府が宰子の不倫騒動を契機に将軍による反得宗クーデターの疑惑を捏造して宗尊を追放したのである。実際宗尊は将軍の供奉をめぐって小侍所別当であった金沢実時北条時宗と対立していたこともあり、得宗に反感を持つ名越教時が宗尊に接近していたこともあり、放置すれば反得宗勢力になる可能性は秘めていたのは事実であろう。しかし宗尊による謀反計画は完全に捏造であり、幕府も後に宗尊に所領を献上して和解している。なお宗尊が二月騒動に連座して出家させられた、とか、佐渡に流されたというのは事実に即していない。大河ドラマの見過ぎである。
宗尊とは浅からぬ因縁の基平であるが、それだけに幕府との関係には気を使ったであろう。さらに基平を抜擢したのは鎌倉幕府によって地位を確立した後嵯峨上皇である。基平が幕府の代理人として動いたのには相応の理由があるだろう。しかし基平が文永五年十二月に赤痢で急死し、朝廷の方針は返牒方針に変わる。一二七二年親幕派の筆頭であった後嵯峨法皇が重病にかかり、若い亀山天皇の親政が開始される頃合いを見計らうかのように二月騒動が起こり、返牒方針は完全に抑え込まれる。この点について少し考えたいと思う。ただまだまだ未完成である。見解はころころ変わるだろう。