北条義宗の立場

今私の頭を悩ましているのが北条義宗である。
北条義宗大河ドラマ北条時宗」では宮迫博之氏が演じた役柄である。実際の義宗は極楽寺流の嫡流赤橋家を継承している。極楽寺流重時の嫡子にして六代執権だった長時の嫡子。重時の子どもについてまとめておくと長子が長時、次子が時茂、三子が義政となる。極楽寺流は安達氏と関係が深く、重時の娘は安達泰盛北条時頼に嫁いでいる。重時の孫が北条時宗になる。泰盛の妹が時宗正室となる。
極楽寺流は本郷和人氏の『真・中世王権論』(新人物往来社、二〇〇四年)においては「統治派」に位置づけられている。一応本郷氏の「統治派」について粗々記しておくと、本郷氏は鎌倉幕府の路線対立として「統治派」と「御家人の利益派」があるとした。「統治派」は極楽寺重時に淵源を持ち、安達泰盛に引き継がれていく。一方平頼綱は「御家人の利益派」となる。「統治派」は公平性を重んじた政治を行ない、時には御家人をも非として公家の主張を是認したり、「撫民」を標榜して「百姓」の権利を擁護する。彼らは公家と百姓の間に位置する非御家人を取り込もうとする。一方で幕府は御家人の利益を代表する機関であるという自己認識を持つのが「御家人の利益派」である。
彼らの政策を本郷氏は次のような対立軸で説明する。
安達泰盛ー統治ー徳政令の否定ー亀山院政との協調ー将軍復権ー武蔵・上信へ権力伸長
平頼綱御家人の利益ー徳政令の興行ー亀山院政と競争ー得宗集権ー南関東
私はかつて泰盛と亀山を対立するものとして考えていたが、やはり無理筋のようで、泰盛と亀山の徳政興行(徳政令ではない)と霜月騒動後の亀山院政の崩壊を考えると泰盛と亀山は決して対立する関係で考えるのは難しいと考えた。泰盛の没落と亀山の没落はやはり一つの流れで把握するべきだろう、ということだ。
ただこうなると気になるのはモンゴルへの主戦論をリードしたのは頼綱なのか泰盛なのか、という問題である。そこで主戦論の走りとも言うべき近衛基平を考えてみたのだが、今のところ基平が後嵯峨上皇と密接な関係をもっていて、基平を関白に登用したのは後嵯峨である、という事実と、基平の強硬論が幕府の意向を受けていた可能性について考えられたが、幕府内部の路線対立と結びつけるには至っていない。
もう一つ悩んでいるのが北条義宗の扱いである。本郷氏は二月騒動を「統治派」に対抗した「御家人の利益派」が一挙に劣勢を挽回しようとした動きではないか、と考えられる。塩田義政の隠棲も同じ文脈で考えられる。いずれも説得力があるのだが、義宗をどのように扱うのかが私にはわからない。
義宗は重時の孫で、父が長時、母が佐介時盛の娘。完全に「統治派」に属する人間である。彼は一方で二月騒動では中心的な役割を果たす人物でもある。六波羅探題北方の赴任した彼の最初の大仕事が二月騒動で六波羅探題南方であった北条時輔誅殺であった。そして塩田義政失脚を受けて鎌倉に戻り、評定衆になる。
義宗が二月騒動で果たした役割はこの分類に従えば、平頼綱の側に立ったものと考えることが出来よう。しかし彼の人脈は「統治派」のそれである。今、彼をどのように位置づけるべきか、悩んでいる。つまるところ二月騒動をどのように解釈すべきなのか、という問題に行き着くのである。二月騒動で粛正されたのは何だったのか、を今考えている。
二月騒動が鎌倉と京都で同時に起こった。鎌倉では名越時章名越教時兄弟が殺され、京都では北条時輔が殺される。これはいずれも得宗時宗に反対する勢力を粛正したものと思われていたが、実は別個の事件だったのか、とか、いやいや北条時輔名越教時も前将軍宗尊親王に近いから粛正されたもので、やはり御家人の利益派が宗尊追放から一連の動きで動いたのか、とか。この事件では時宗に対する風当たりが強かったというのもあるし、やはり一連の動きとして把握すべきであるのだろうか。もう少し考えてみたい。