北条時輔の立場

北条時輔北条時宗の庶兄。母の血筋が低かったため、跡継ぎになれず、北条時宗得宗の地位を継承した後は六波羅探題南方。二月騒動で北条義宗に討たれる。大河ドラマ北条時宗」では渡部篤郎氏が演じていた、と言えば分かりやすいか。ちなみに大河ドラマの影響で近衛基平北条時輔の関係をいろいろ論っているサイトを見かけるが、全く史実とは異なるので注意。北条時輔近衛基平はおそらく面識すらない。というのは、近衛基平の日記には北条時輔は全く出てこないし、六波羅探題北方が事実上六波羅探題の職務を執行している段階では、六波羅探題南方の時輔は事実上の飼い殺し状態だったと思われるからだ。そもそも無位無官の時輔が関白左大臣の基平と接点があるはずがない。さらに夢をぶちこわして恐縮だが、基平は相当なメタボ体系であったらしい。これは落書に「内府ニシシアリ」とかかれていることからも明らかである。当時は太めがイケメンの条件で、足利義満の画像も十分メタボ体系だが、彼は「光源氏の再来」と呼ばれていたらしいから、基平のメタボ体系のすさまじさがわかる。赤痢にかからなくても早晩メタボリック症候群に起因する病気で死去しただろう。私も気をつけよう。
時輔の人生でいくつか気になる点を挙げておく。まずは名前による輩行順は相模太郎時宗、相模三郎時輔、相模四郎宗政、相模五郎宗時、相模六朗政頼、相模七郎宗頼となる。しかし鶴岡八幡宮放生会に将軍宗尊親王夫人(基平の姉宰子)が参宮する時に時頼は時宗を布衣供奉、時輔を随兵としたが、宗尊は時宗と時輔の扱いを同等にするように要求している。さらに将軍の鶴岡八幡宮供奉の供奉人の名簿の記載順序が「時宗・宗政・時輔・宗頼」とされた。時頼は時輔よりも宗政を上にしようとし、一方宗尊は時輔を少しでも上げようとしていることがわかる。宗尊は時輔をかなり評価していたようだ。実際のところ、宗尊は将軍出行の供奉人選定をめぐって実時・時宗と対立したこともあり、供奉人選定事態が一つの政治的駆け引きとなっていたことを考え合わせると、時輔は宗尊に期待されていたようである。
時輔に関してもう一つ注目される事例は、兀庵普寧である。兀庵普寧は時頼の招きを受けて来日するが、時頼の死を契機に宋に帰国する。蘭渓道隆との確執もあったようだが、弟子の東巌慧安宛の書状で時宗をこきおろしつつ、時輔を高く評価していることが気になる点である。帰国後も時輔との関係は続いていたようだ。
問題は二月騒動をどのように評価するか、である。二月騒動は後嵯峨法皇が重体となったタイミングで起こされている。1272年2月11日、鎌倉で名越時章、教時兄弟が誅殺され、宗尊の側近の中御門実隆が拘禁されている。2月15日、北条義宗北条時輔を誅殺、二月騒動は幕を閉じた。
現在研究史において問題になっているところをいくつか述べたい。
まず時輔が六波羅探題南方になったのは追放か栄転か、という点である。大河ドラマ北条時宗のころ、私の指導教授は「時輔は左遷されたんじゃないんだよ。あれは栄転だろう」と不満を垂れていたが、その時私は逆らわなかったが、心の底では「それはないやろ」と思っていた。しかし最近本郷和人氏の著書を読んでいて指導教授の言うことも一理あるのではないか、という気になったが、細川重男氏の文(「http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/sagamishikibu.html#29」←消えてます。どこかで公開されるとは思います。その日をまっています。これだけの論文が消えたまま、というのはもったいない。)を読んでその可能性も高いような気がしてきた。まずはそこから先入観を抜かなければならない。というわけでまた後日。