二月騒動をどうみるか

二月騒動で一番利益を得たのは誰か。どう考えても北条時宗だろう。反時宗派になりかねない名越流に大打撃を与え、さらに危険因子であった北条時輔を粛正できた。北条時輔自身が時宗に対する謀反の意図があったかどうかは問題ではない。むしろ六波羅探題北方の北条時茂が死去した後、後任の北方を置かなかった事実は、当初時宗は時輔を危険因子とは見なしていなかったことを示唆する。その意味では時輔の六波羅探題南方就任は、左遷ではなく、栄転であった可能性もある。
時輔や名越氏の意図とは別に時宗によって演出された二月騒動によって時宗はその権力を集中させることに成功した。
それでは損をしたのは誰だろうか。北条時輔名越時章・教時兄弟であることは論をまたないであろう。中御門実隆もかなり損をした口であろう。あとは六波羅評定衆安達泰盛の兄の安達頼景も所領没収ということで割を食っている。問題はそれ以外に損をした人間がいたか、である。
名越時章・教時兄弟と北条時輔宗尊親王と関係が深い。宗尊親王は事件後に出家しているが、宗尊親王の出家をめぐっても議論がある。反得宗勢力の結節点となりかねない宗尊親王を出家させた、という見方がある一方で、宗尊の出家は後嵯峨法皇に死去に伴うものとする見方もある。宗尊がこの騒動でどのような役割であったのかはよくわからない、としかいいようがない。
亀山天皇が和親返牒を考えていたが、その機先を制する形で幕府がクーデターを起こしたという見方もある。あるいは統治派に対して御家人の利益派が武力で抑え込んだという見方もある。
そこで問題になるのが安達頼景の立場である。安達頼景と安達泰盛の関係はどうだったのか。頼景と泰盛の関係は悪かった、という見方がある。そうなると頼景の失脚は泰盛を利することになる。つまり二月騒動で泰盛は得をしたことになる。一方頼景と泰盛の関係が悪くなかったとすれば、頼景の失脚は泰盛にとっては打撃となる。安達泰盛名越時章の守護分国であった肥後国を継承していることの意味合いも代わってくるだろうし、対モンゴル戦争を主導したのはだれか、という問題も微妙に代わってくるのである。そこで頼景という人物について考える必要があるのだが、今のところほとんど手がかりがないとしかいいようがない。