はてなキーワード北条時輔

登録した。ウィキペディアの歴史物はそれなりに役に立つことが多いが、少し筆が走りすぎているきらいもある。例えば宗尊親王佐渡に流されている、という記述。二月騒動後に出家しているのは事実だが、表向きは父の後嵯峨法皇の死去に殉じていることになっている。まして佐渡流罪もしくは佐渡に遷されるという史実はない。可能性として考えられるのはせいぜい宗尊親王に警戒感を持つ得宗の圧力で後嵯峨法皇の死去にかこつけて出家させられた可能性である。学界の多数派説ではそれすら否定的である。
時輔に関しても、時輔が対モンゴル政策にどのような意見を持っていたかは検証しようがない、としかいいようがない。時輔が六波羅探題に一人でいた頃に亀山天皇によるモンゴルへの返牒が議論されたことは事実であるが、時輔がそれにどう思っていたかは不明である。安達泰盛の庶兄安達頼景が六波羅評定衆に名を連ねていることから、庶兄同士による連帯を考えることもあながち無理ではないが、安達頼景の失脚が泰盛にどう作用したかは議論の分かれる所である。
とりあえず現時点での最大公約数的な見解を示すことを目標にキーワード編集にとりかかろうと思う。ただ他人様がすでにつくっていらっしゃるところには介入せず、また自分が研究史の到達点を熟知していない対象については編集しない。かなり編集するキーワードは限られるが、少しずつ充実させていきたい。