北条時輔関係史料3 文永2年(1265)10月5日「六波羅御教書案」 

今度は「高野山文書続寶簡集七十八」所収。つまり高野山に伝来した文書ということだろう。とりあえず本文と読み下し。

(別紙)「六波羅殿第二度御教書 阿弖河上下村地頭召文事 文永三年十月五日」
法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄雑掌申所務条々事、重訴状如此。先度令相触之処、于今不及散状、子細何様事哉。所詮、来廿五日以前企参洛、可被明申之状如件
文永二年十月五日  散位在ー(北条時輔
          左近将監在ー(北条時茂
 阿弖河上下村地頭殿(湯浅宗親?)

本文の読み下し。

法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄雑掌申所務条々事、重ねて訴状此の如し。先度相触れしむの処、散状今に及ばず、子細何様の事哉。所詮、来る廿五日以前に参洛を企て、明らめらるべく申すの状件のごとし。

現代語訳

法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄雑掌が申す所務の条々事
訴状が重ねてこのように出された。前に命じた所、散状(返答書、請文と同じ。請文散状ともいう。)はまだ出されていない。子細はどのようになっているのか。25日までに六波羅に出頭してはっきりさせよ、とのことである。

法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄というのは「ミミヲキリ」で有名な荘園である阿弖川荘のことである。本家職は円満院門跡桜井宮寛仁法親王後鳥羽上皇の皇子である。
1257年、寛仁法親王は湯浅氏の預所職を取り上げ、戸賀井法眼なる人物に与えた。六波羅提訴も視野に入れた動きに地頭湯浅宗親も桜井宮側近の中の親湯浅派の米持王を通じて六波羅提訴を阻む。
1259年には戸賀井法眼を嗣いだとおぼしき預所播磨法橋が阿弖川荘に実力行使を行い、湯浅宗親の養母光信が六波羅に提訴している。
1263年には親湯浅の米持王が預所職に就任、地頭請を成立させる。しかし反湯浅派が巻き返し、六波羅に提訴、米持王は解任、地頭請も停止された。
しかしその後米持王は桜井宮を通じて預所に復帰し、湯浅宗氏に地頭請を許可する。
当該文書はそのころのものであろう。実際には仲村研編『紀伊国阿弖河荘史料』を検討するべきだが、手元にないのでとりあえずパス。
桜井宮死去後に寂楽寺が預所を奪取し、農民を巻き込んで六波羅探題への訴訟合戦となる。そして10年後の建治元(1275)年には「ミミヲキリ、ハナヲソギ」という有名な文書が出されるのである。
詳細は高橋修著『中世武士団と地域社会』(清文堂、1999年)所収の「武士団、寺院、そして民衆」を参照いただきたい。阿弖川荘については次のサイト(
ミミヲキリ、ハナヲソギ」)が便利。
以上を踏まえてこの文書の考察をすると、「雑掌」と地頭が対立している所をみると、米持王が地頭請を成立させたものの、反発した反湯浅派が六波羅提訴に踏み切り、六波羅探題が調査に乗り出した、というところであろうか。この半年後には桜井宮が死去し、一層混乱は深まるのである。