「尼真阿請文」(『鎌倉遺文』一二二九二号文書)を読む

同じく「異国征伐」に動員された人の例。前回までの井芹重秀と並んで「当時の我が国民が老若男女の別なく国難に殉ずるの覚悟を有したことを十分くみとることが出来る」とされた文書。文書の発給主の尼真阿は女性。歩行も叶わぬ老人や寡婦となった女性までもが「国難に殉ずる」覚悟を有したことをくみとれる文書として戦前には英雄視された人々である。いずれも熊本市北部で彼女の住居跡も熊本市山室5丁目に残っている(「http://www.pref.kumamoto.jp/arinomama/contents_dbpac/asp/bunkazai/s_frame.asp?b=rt&id=887&group_id=6&fw=..%2Froot%2Froot_detail.asp%3Fpage%3D1%26root_id%3D44」)。山室の周囲には大窪という地名があるが、重秀の所領を押領していた大窪氏ゆかりの地名であろう。文書伝来の由来は井芹重秀請文と同じで、少弐経資が九州各国の守護に動員可能な人員と算定の基礎となる所領の状況の報告を命じ、それに対する回答として提出された請文類が箱崎八幡宮に奉納された書物に再利用されたことによって今日残存することになったのである。1904年に発見され、戦前には国民教化の教科書に採用されたのである。
まずは史料の原文。

建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到来。畏拝見仕候了。
抑被仰下候為異国征伐、人数交名并乗馬物具員数等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜継日企参上候へは、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言
 閏三月三日  北山室地頭尼真阿(裏花押)

読み下し。

建治二年三月廿五日の御書下、昨日閏三月二日到来し、畏み拝見仕り候了ぬ。
抑仰下され候異国征伐のため、人数交名并乗馬物具員数等の事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、夜を以て日を継ぎ参上を企て候へは、申上べく候、此の旨を以て、且つ御披露あるべく候、恐惶謹言
 閏三月三日  北山室地頭尼真阿

現代語訳。

建治二年三月二十五日の守護からの書き下し文書は昨日閏三月二日に到来し、拝見いたしました。
仰せ下された異国征伐のため、人数、名前、乗馬、武器などの事、子息の三郎光重と聟の久保二郎公保を急いで参上させますのでご報告いたします。この旨を何とぞご披露くださいませ。

「御書下」に関しては『鎌倉遺文』には肥前守護少弐経資書下(建治二年三月二十一日付け、『鎌倉遺文』一二二六九号文書)や薩摩守護島津久時書下(建治二年閏三月五日付け、『鎌倉遺文』一二二九三号文書、一二二九四号文書)などがある。
真阿については網野善彦氏は「一応熱心な例」としているが、海津一朗氏によると「当時の幕府は、有事を理由に女性の所領相伝を規制する新法を出しており、真阿が軍役に応じなければ所領北山室は即没収されたのである」としている。
鎌倉時代前半までは地頭職つまり御家人は必ずしも男性とは限っていなかった。女性でも「堪器量仁」とみなされれば御家人として認定されたのである。しかし「有事」の中で「武勇」が「器量」とされると、女性や老人や子どもの領主は「非器」とされ、没収される運命にあった。井芹重秀も真阿も「有事」の中では真っ先に切り捨てられる運命にあったのである。だからこそ「国難に殉ずるの覚悟」を見せる必要に迫られていた、とも言えるのである。
「異国征伐」に動員された人々の多くは九州の小御家人であった。九州では9割の地頭が東国御家人で、九州にもともといた領主は「名主」「小地頭」として東国御家人の下風に立たされていた。安芸定時と井芹重秀の場合はその典型的な一例である。島津久時が薩摩にやってきたのも実は建治元年で、それまでは彼は薩摩・大隅・日向にまたがる近衛家領島津荘の地頭でもあったのだが、鎌倉に在住し続けていた。モンゴル戦争への対応として東国御家人が九州に移住するケースが目につく。それ以前にも東国御家人が九州に新たに地頭職を得て移住するケースも当然あった。新たに移住した東国御家人は九州に以前から勢力を持っていた領主と軋轢を起こすことになる。新参者の東国御家人に対抗するためには、幕府の動員に応じる以外に方途はなかったのである。