「日蓮書状」(高祖遺文録 『鎌倉遺文』一一八九六号文書)

モンゴル戦争について論じる際にしばしば引用される史料。「むごい」の語源が「蒙古」である、という時には必ずと言っていいほど引用されるであろう史料。しかしこの史料はしばしば一部だけ引用され、恣意的な解釈が為される。文永の役の時にモンゴル・高麗連合軍が行なった行為の詳細を記した史料として、使われるのであるが、実際には何を書いているのか、考える必要がある。

去文永十一年大歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐対馬ノ如シ、又今度ハ如何カ有ラン、彼国ノ百千萬億ノ兵、日本国ヲ引回シテ寄テ有ナラハ、如何ニ成ヘキソ、北ノ手ハ先佐渡ノ島ニ付テ、地頭・守護ヲハ須臾ニ打殺シ、百姓等ハ北山ヘニケン程ニ、或ハ殺サレ、或ハ生取レ、或ハ山ニテ死スヘシ、抑是程ノコトハ、如何シテ起ルヘキソト推スヘシ、前ニ申ツルカ如ク、此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也、日蓮ハ愚ナレトモ、釈迦仏ノ御使、法華経ノ行者也ト名乗候ヲ、用サランモ不思議ナルヘシ、其失ニ国破レナン云々、
建治元年乙亥四月 日
 日蓮花押
四條金吾殿御返事

まずは現代語訳。

去文永十一年大歳甲戌十月に、蒙古国より筑紫に寄きたが、対馬の者、防衛の任に当たっていた總馬尉(宗助国)等が逃げたので、一般人の男をば殺したり、生け取ったりし、女をば取り集めて、手を通して船に結び付けたり、生け取りにし、一人も助かる者はなかった。壱岐によせても又同じようであった。船が押し寄せてきた時に、奉行入道豊前前司(少弐資能)は逃げていった。松浦党は数百人討たれたり、生け捕りにされたので、寄せてきた浦々の一般人は、壱岐対馬と同じ目に遭った。今度はどんなことがあるだろう。モンゴルの百千万億の兵が、日本国を引き回して寄せてきたら、どういうことになるだろうか。北の部隊は先ず佐渡島にやってきて、地頭・守護を一瞬のうちに打殺し、一般人は北山へ逃げている間に、殺されたり、捕まったり、山で死んだりするだろう。そもそもこういうことは、どのようにして起きたのかということを考えよう。前に申したように、此国の者は、一人残らず三逆罪の者である。是は梵王帝釈日月四天が、彼蒙古国の大王(フビライ)の身にお入りになってお責めになっているのだ。日蓮は愚ではあるが、釈迦仏の御使、法華経の行者也と名乗っていましたのを、聞き入れないのも不思議であった。そのせいで国が破れたのだ。

この書状が書かれたのは建治元(1275)年、文永の役の翌年である。文永八(1271)年十月に佐渡に流された日蓮は三年後の文永十一(1274)年に赦免され、幕府から諮問を受け、当年中にモンゴルが攻めてくることを予言し、法華経を立てよと進言するが、日蓮の進言を幕府は受け入れず、日蓮身延山に入山し、久遠寺を建立する。日蓮の予言から五ヶ月後、モンゴルは攻めてきた。それを受けて日蓮門徒に書き記した書状で、この四条頼基宛の書状が有名であるが、他に一谷女房宛日蓮書状(鎌倉遺文一一九〇五号文書)にも同じ文言がみられる。おそらくかなりの門徒日蓮は書き記していたのであろう。
この史料を扱う時には、書き手がどういう意図をもって記したか、ということに注意を払わなければならない。史料に書いてあるから真実とは限らないのである。身延山にいた日蓮対馬の惨状をどうやって知りえたのか、ということが明らかにされなければ、ここに描かれたモンゴル・高麗連合軍の行為が真実であるとは認定されがたいのである。
日蓮書状には大きな過ちがある。宗助国が逃げた、というところと、少弐資能が逃げた、というところである。少弐資能文永の役の時には壱岐に行っていない。壱岐で戦ったのは守護代の平景高である。景高と宗助国はいずれも奮戦むなしく戦死するのである。日蓮はある意図をもってこの書状を書き記している。この意図に基づいて再構成された史料をそのまま都合のいい所だけ引用して論じるのは、無知なのか、それとも誠実ではないかのどちらかである。羽仁五郎の言葉を借りれば「バカか悪意があるか」である。
日蓮はどういう意図をもってこの書状を書いているのか。それは明白である。今回の惨事は法華経を採用しない幕府に責任があることを主張したいのである。だから幕府の御家人である宗助国と少弐資能を貶め、対馬壱岐の惨害をことさらに書き立て、揚げ句に「梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給」とフビライが仏の化身であるかのような記述が現れるのである。
史料を読み込む時には史料を書いた人の事情も勘案して解釈しなければならない。史料をそのまま鵜呑みにするのは危険な行為である。
この史料が有名になっていく事情についてはかつて述べたことがある(「2006-07-08 - 我が九条」「2006-07-11 - 我が九条」)。またまとめて書き直したい。
追記
私がいつも不思議なのは、この史料を引用する人で全文を引用する人が少ない、という点だ。全文引用すれば自分に都合の悪い点が見えてしまうから、というよりはそもそもこの史料の全文を知らない可能性が高いように思われる。というのは概ね引用元が『伏敵篇』という、明治時代に書かれた著書だからだ。そもそも明治時代に出版されたきりの著作を典拠にするのは、どう考えても不自然で、ネット上に出回っているデマをコピペしただけ、というのが真相だろう。ちなみにデマの発生源もはっきりしている。その発生源とネットで出回っているデマが同じ引用ミスをやらかしているからだ。引用ミスはだれしもやらかす。しかし同じミスをハンコで押したようにやらかしているのは、それがコピペで出回っていることの証左に他ならない。問題はその発生源に研究者が関わっていることだ。その研究者が『鎌倉遺文』を引用元にしないで、わざわざ閲覧に手のかかる『伏敵篇』を引用してきた背景には、その研究者もまた孫引きをしている可能性が指摘できよう。全文を読めば、ひねり出せない解釈をしているからだ。『伏敵篇』所収の日蓮書状を自分に都合の良い所だけつまみ食いしたのは、そもそもどこが始まりなのか、概ね見当はついているが、明日大学で所用があるのでついでに確かめてくることにする。おそらく「むごい」の語源ともからんでくるだろう。
追記2
いま古本屋のサイトを見れば以外と『伏敵篇』は出回っているようだ。2万5000円。安い。買っておいて損はないな。ただ明治25年の本なのでかなり痛んでいる可能性は高いが。
追記3
多くは北九州の古本屋にあるようだが、一つ地元で見つけた。明日入手に行こう。