「むごい」の語源2−陸上自衛隊第四師団司令部編『本土防衛戦史―元寇』より−

調べてみた。さんにゃん氏からご教示のあった箇所を引用しておくと以下の通り。

このような残虐行為は、「蒙古」ということから訛って「ムゴイ」という言葉を生んだといわれており、現在もなお、われらの胸中に悲憤の思いがするのである。

とある。その残虐行為の典拠については次のように記述がある。

ここにおいて助国は、小太郎及び兵衛次郎に命じて、急を大宰府に告げさせるとともに、自らは六十八才の老骨に鞭打ち、部下を激励しながら陣頭に立ち、群がる的を相手に勇戦奮闘した。わが部将の一人斎藤兵衛三郎資定は、身長およそ一米八十位の大男であったが、大太刀を揮って群がる敵の中に馬を乗り入れ、多くの的を斬り倒し、刀が折れても退かず、石を揮って奮戦し、敵の面を砕くこと実に九人、ついに精根尽き果てたのであるが、敵の手中に落ちるのを潔しとせず、自ら浜辺の岩にあたまをぶっつけて打ち砕き壮烈な最後を遂げた。このように、宗助国の一族・郎党は、秋深き佐須の浜辺において、最後の一兵にいたるまで奮戦し、全員壮烈な玉砕を遂げた。(中略)
元軍は、その後約一週間にわたり放火、掠奪、暴行など、悪業の限りをつくした。その状況は、「日蓮註画讃」にいれば次のとおりであって、実に目を蔽うほどの残虐ぶりといわざるを得ない。
「百姓等は、男は捕えられ、女は一所に集められ、命に従わない者は手を徹して舷側に結びつけられ、虜となった者で害を受けなかった者は一人もいなかった。」

ここで注目に値するのは使用している史料が「日蓮註画讃」であることだ。日蓮本人が書いた史料を使わずに後世に編纂された史料を使う所に意図を感じる。というのも『伏敵篇』においては「高祖遺文録」として「日蓮書状」が引用され、その次の項目に「日蓮註画讃」が引用されているにも関わらずあえて史料的価値の劣る「日蓮註画讃」が使用されているからである。日蓮がなぜモンゴル・高麗連合軍の「蛮行」を記録したのか、ということに言及しなくてもいいからである。これからネットで日蓮の記述を使う時には「高祖遺文録」ではなく、「日蓮註画讃」を引用することをお勧めしたい(笑)。
問題としてはやはり「ムゴイ」の語源として「蒙古」が挙げられることの根拠が示されていないことにつきる。史料の選択にもいささか疑問が残る。どう考えても「高祖遺文録」の日蓮書状が原型で、それをもとにして後世再構成された「日蓮註画讃」を典拠とするのは歴史学の方法論から言っても問題が多い。
ただこの書が「第四師団司令部の穂村幕僚長以下部・課長全員及び一部の部課員を委員とし、公務のかたわら編集したもの」とある。「特に史実の資料収集と整備には郷土出身で、郷土史研究を志していた一等陸尉斉藤明、全般の最終的整理と執筆には一等陸尉一冨襄両君の絶大な努力を煩わした」とある。失礼にあたるかもしれないが、「歴史学的に、また、著述に素人であって」とあるが、それにしては非常によくまとまっている、と思わされたことも事実である。特に『鎌倉遺文』がまだ発刊されていない1963年という年代に書かれたことを考えると、その観は一層強まる。