北条時輔関係史料 文永2年(1265)10月29日「六波羅施行状」  『三島文書』(『愛媛県史』資料編古代中世、196号)

しばらく間が開いてしまった。『鎌倉遺文』未収録の時輔関係史料。「六波羅施行状」とは六波羅探題が幕府の命令を取り次ぐ場合の御教書のこと。
本文。

伊予国前庁小目代黒原右衛門大夫親知与当国御家人祝太郎安俊相論狼藉実否事、
右任去年十二月二日関東下知状、可令存知之状如件
文永二年十月廿九日
       散位平(花押)
       左近将監平(花押)

愛媛県史』には文中の「関東下知状」そのものがないし、『鎌倉遺文』にも見当たらないので、どんなものだったのかは分からないし、そもそも永続的な効力を持つ下知状がなく、限時的効力しかもたない施行状が残っているのはどういう理由なのかというのも分からない。
とりあえず読み下し。

伊予国前庁小目代黒原右衛門大夫親知と当国御家人祝太郎安俊の相論狼藉の実否の事、
右、去年十二月二日関東下知状に任せ、存知せしむべき之状件の如し
文永二年十月廿九日
       散位平(花押)
       左近将監平(花押)

伊予国前庁小目代黒原右衛門大夫親知」というのは、遥任国司が派遣した代理人。これについて論及するためには伊予の国司が誰なのかを押さえないといけないのだが、調べるのを忘れてきた。また来週まで大学図書館にいかないので放置。多分忘れると思う。
在庁官人と御家人祝安俊との争いについて、関東下知状の通りに前小目代の黒原親知と祝安俊の間のこじれた事情を明らかにせよ、ということだろう。
祝安俊は河野氏の一族で大三島神社大山祇神社)の祝職を世襲する一族。饒速日命の子孫を称し、安俊は十八代目の大祝職であった。孫の安親は元弘の変では後醍醐方について活躍している。