北条時輔関係史料 (文永2年)11月19日「六波羅施行状」 『九条家文書』(『鎌遺』9406号)

引き続き時輔関係史料。

(端裏書)「六波羅施行状 多紀北庄事 文永二年十一月十九日」
備前国小豆島・常陸□〜□(国小嶋南カ)庄・丹波国多紀北庄預□(所カ)職事、
去九月廿日関東□〜□(御教)書如此候。以此旨、可□〜□(令披露カ)給候。恐惶謹言
 (文永二年)十一月十九日 散□〜
              左近□〜
進上 上総前司殿(大曽祢長泰カ)

六波羅施行状。つまり鎌倉幕府の意向を六波羅探題が取り次いだもの。欠失が多く意がとりづらいが、□や□〜□の部分が破損。虫食いの跡。虫が食ったと思うと結構キモい。ひどいのになるとばらばらになったりする。自分が手に取った瞬間崩壊すると目も当てられない。もっとも私は二回しか本格的な文書調査にはかかわったことがない。基本的に文書を読むのが不得手なのでお呼びもかからないし、自分でも積極的に行こうとも思わない。自治体史編纂のバイトをやるとこういう文書に触れる機会は多いが、私は塾で教えるバイトに手を付けたので、そういうバイトが回らなかった。その内に自治体の予算が削減され、文書調査を伴う自治体史編纂の仕事自体がなくなっていった。
閑話休題
大曽祢長泰は安達盛長の子どもの時長にはじまる安達氏の一族。時長の兄が景盛で、景盛の子の義景が安達家を嗣いだ頃から分家の時長の子の長泰は大曽祢を姓としたようだ。大曽祢荘は出羽国にある荘園で、年貢にアザラシの皮があるなど北方交易に関係があったらしい(福島金治『安達泰盛鎌倉幕府』有隣新書)。安達氏も秋田城介を世襲し、泰盛は北条一族が任ぜられるのが通例の陸奥守にも任命されている。これは必ずしも名目的なものではなく、陸奥・出羽両国が鎌倉幕府の強い支配下にあったことを考えると、安達氏が北方関係の官職に任ぜられる事に関しては考察が必要だろう。まあ何もないかもしれないが。津軽安藤氏の問題にしてもいろいろなことが明らかになってきているが、鎌倉幕府との関連に関して言えば、「蝦夷管領」であった、ということ以外にはほとんど明らかになっていないのも事実である。大曽祢荘の年貢にアザラシの皮があったことは、鎌倉時代北アジア対日本を考える上で一つの手がかりになるだろう。
とりあえず読み下し。虫損のところは『鎌倉遺文』の想定通りに埋めておく。

備前国小豆島・常陸国小嶋南庄・丹波国多紀北庄預所職の事、
去る九月廿日関東御教書は此の如きに候。此の旨を以て、披露せしめ給ふべく候。恐惶謹言
 (文永二年)十一月十九日 散位(北条時輔
              左近将監(北条時茂
進上 上総前司殿(大曽祢長泰)

ちなみに小豆島・常陸国小嶋南荘・丹波国多紀北荘については、だれが本所や領家だったのか調べがつかない。こういうのはそれぞれ本があるのだが、私の家には置いていないのでとりあえずギブアップ。ちなみに大学の史料購読の講義の報告でギブアップすると怒られるので注意。大曽祢氏と北方史研究の関わりで逃げるのは、北方史研究にある程度たずさわっている人間がやれば、ごまかしも効くが、学生がやると危険。まじめに文献を調べよう。
追記
『講座 日本荘園史』をみてきた。丹波国多紀荘は本家が亀山上皇、領家が九条家。小豆島も同じく八条院領だから王家が本家職を保持し、領家職が九条家。小嶋南荘はまだみていない。