北条時輔関係資料 文永2年(1265)12月10日「六波羅御教書案」 『薬師院文書』(『鎌遺』9434号)

本文

播磨国大部庄地頭代左衛門尉資宗申条々狼藉事、重申状具書進上之。為預所々行之旨、訴申之間、令申領家候之處、為衆徒沙汰之。□(所カ)詮、召給彼等、可相尋候。以此旨、可御披露□□(候。恐カ)惶謹言
文永二
  十二月十日    散位時輔 在御判
           左近将監時茂 在御判
進上 大夫法眼御房

読み下し

播磨国大部庄地頭代左衛門尉資宗が申す条々狼藉事、重ねて申状と具書、これを進上す。預所の所業としての旨、訴え申の間、領家に申さしめ候の處、衆徒のためこれを沙汰す。所詮、彼等を召し給い、相尋ぬべく候。此の旨を以て、御披露あるべく候。恐惶謹言。

関連文書とおぼしきものが続いてある。『鎌倉遺文』9335号文書。

播磨国大部庄預所之沙汰、所給候御下知、□即申入候之處、彼庄者、雖東大寺領候、非寺務之進止候。為別相伝、南都東南院法印御房知行間(以下欠失)

読み下し

播磨国大部庄預所之沙汰により、給候所の御下知、□即ち申し入候之處、彼庄は、東大寺領に候といえども、寺務之進止にあらず候。別相伝として、南都東南院法印御房知行間(以下欠失)

おそらく「南都東南院法印御房」が「別相伝」として東大寺の支配から大部荘を離脱させたことが紛争の原因だろう。以下略。
追記
大部荘は東大寺領で、交通の要衝であるために紛争が絶えないらしい。東大寺領である以上、この荘園は東大寺のものなのだが、別相伝と称して「何と東南院法印御房」が自分のものにしてしまった、ということなのだろう。
追記2
たまたま『鎌倉遺文』をぱらぱらしていたら次の文書を見つけた(9593号文書)。

東南院家政所下 大部庄公文職事
 補任
  藤原久信
右、補任如件
  文永三年十一月十五日
別当法橋上人位在判