文永3年(1266)5月24日「六波羅下知状」『北島家文書』(『鎌遺』9536号)
まずは本文。
出雲国神魂社領大庭・田尻保地頭職事
右、任去年八月廿二日関東御下知、出雲泰孝可致沙汰状如件
文永三年五月廿四日
散位平(花押)
左近将監平(花押)
読み下し。
出雲国の神魂社領の大庭・田尻保の地頭職の事
右、去年八月廿二日の関東御下知に任せ、出雲泰孝沙汰を致すべきの状如件
文永三年五月廿四日
これだけではよくわからんが、要するに文永二年八月二十二日付けの関東下知状を受けて発給された文書で、大庭保と田尻保の地頭を出雲泰孝にやらせろ、ということである。
一応関東下知状もみておこう。文書名は『鎌倉遺文』では「将軍家御教書」となっている(9335号文書)。宗尊親王の意を奉じて執権と連署が出している文書ということである。
可令早出雲泰孝、領知出雲国神魂社領大庭・田尻保地頭職事
右、任親父義孝譲状、可令領掌之状、依仰下知如件
文永二年八月廿二日 相模守平朝臣(花押)
左京権大夫平朝臣(花押)
「相模守平朝臣」は連署の北条時宗、「左京権大夫平朝臣」は執権の北条政村のこと。出雲義孝から子どもの泰孝に家督を継承することの承認を鎌倉幕府が出している、ということだ。父親の譲状を幕府が認定することによって家督が継承される。二つとも「出雲北島家文書」に収載されているが、つまり出雲の北島家にまとめて自分の家督継承の証文として保存された、ということだろう。
出雲家は出雲国造を世襲する家系で、出雲大社の祭祀を司ると同時に松江市大庭にある神魂神社も司っていた。出雲国府に近いこの地を地頭職として支配下に収めていたのだろう。