北条時輔関係史料 文永3年(1266)6月18日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌遺』9543号)

これからしばらく『東大寺文書』の中の時輔関係史料の講読。

東大寺領美濃茜部庄預所申年貢已下条々事、別当前大僧(正脱カ)御房御消息(副解状、具書)、如此、子細見状、早可令弁申之状如件
 文永三年六月十八日  散位
            左近将監在御判
地頭代

預所」は賢舜、「別当大僧正」は聖基、「地頭代」は伊藤行村。もちろん「散位」が北条時輔で「左近将監」が北条時茂
読み下し

東大寺領の美濃国の茜部庄の預所が申す年貢以下条々事、
別当前大僧正脱カ御房の御消息(解状と具書を副ふ)、此の如し、子細は状を見るに、早く弁じ申さしむべき之状件の如し
 文永三年六月十八日  散位
            左近将監在御判
地頭代

東大寺別当の大僧正聖基から直々に六波羅探題に手紙があった。それに対し地頭代に弁明を求めた御教書。
『鎌倉遺文』9545文書に賢舜の申状案が収録されている。結構長いので本文の収録はとりあえず見送り。概要を示すと地頭代の伊藤行村が百口学生供料絹を「不法致す」つまり納めない、ということで地頭請を停止させてほしい、という訴えであるようだ。こういう地頭と荘園領主の間の裁判沙汰は結構あるようで、鎌倉幕府もその対応に苦慮していた。特にこのころは鎌倉幕府は土地の訴訟に追われ、越訴方を創設したり廃止したり復活させたり、とやたら忙しい。また裁判の迅速化を目指して作られた引付衆も動向が激しく、訴訟の増加に追われていたことが分かる。六波羅探題南方復活もその延長線上で解釈すべき、という細川重男氏の主張は今のところ私には従うべき見解と考えている。