北条時輔関係史料 文永4年(1267)7月26日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌遺』9742号)

東大寺美濃国茜部荘の地頭代伊藤行村が東大寺への年貢を納めず、東大寺が怒って六波羅探題に提訴した問題の続き。
まずは本文。

東大寺美濃国茜部庄雑掌申年貢以下非法事、別当僧正御房御文(副解状、具書)遣之。早可令弁申之状如件
 文永四年七月廿六日  散位 御判
            左近将監 御判
  地頭代

読み下し。

東大寺美濃国茜部庄雑掌が申す年貢以下非法の事、別当僧正御房の御文(副解状、具書)これを遣す。早く弁じ申さしむべき之状件の如し
 文永四年七月廿六日  散位(時輔) 御判
            左近将監(時茂) 御判
  地頭代(伊藤行村)

これに関連する文書が今のところ3つある。
美濃国茜部荘雑掌申状土代」(鎌倉遺文9744号文書)
東大寺申状」(鎌倉遺文9745号文書)
「伊藤行村請文案」(鎌倉遺文9752号文書)
取り敢えずこの六波羅御教書を受けて出された「伊藤行村請文案」をみておきたい。

七月廿六日御教書今月十一日到来。謹以拝見仕了。抑当別当御房御文并具書等下預候了。条々早々企参上、可弁申之旨、内々御心得候、可有御披露候、行村恐惶謹言
  八月十二日  左衛門尉行村請状

ここで茜部荘について。茜部荘は現在の岐阜市の茜部付近。
承久三(一二二一)年から翌年貞応元(一二二二)年にかけて大江広元の次男長井時広が地頭職に補任され、第五子の泰茂に伝領された。長井氏の庶流に継承されたのだが、鎌倉時代末期に長井氏の嫡流の手に戻り、また庶流に預けられる、という複雑な伝領を示すことになる。長井氏は嫡流・庶流ともに関東・六波羅評定衆を務める家柄で、茜部荘には地頭代を置いた。茜部荘を上村と下村の二つに分けてそれぞれに地頭代を設置したのだが、ここで問題になっているのは下村地頭代の方である。
長井氏はもともとが官僚層であるために地頭代に任ずるべき有力な被官が存在せず、在地の武士団を地頭代に起用した。伊藤行村はどうやら借上(金融業者)を兼ねた請負代官であったことが指摘されている(『講座日本荘園史 5』の中の高村隆氏の解説)。伊藤行村の年貢未進をめぐって東大寺と対立が激化し、東大寺は地頭請を廃止するように要求している。結局文永7年に地頭代は更迭されるのだが、文永九年には「下村地頭代伊藤行村」「上村地頭代沙弥某」とあるようで、更迭というよりは半分取り上げられ、別の地頭代が補任された、ということか。高村氏によると「その恣意的行動を相互に監視・競合せしめんとしたためであること、また、地頭代伊藤行村は借上を兼ねた請負代官であったことなどが指摘されている」ということである。