北条時輔関係史料番外編 読み下し

伊藤行村陳状案を読み下す。

右、当雑掌の申状に云く、「地頭代が請所と号し、自由押領の間、前任勧修寺(聖基)の時、雑掌度々これを訴え申すといえども、敢えて押領の儀を止めず、当御任(定済)又雑掌に仰せ付けられるといえども、行村が一庄を収公し、雑掌は所務に及ばず、堪え難きの次第也」云々。此の条、存外の申し状也。前御任勧修寺の御時、雑掌賢舜種々の今案を構え、請所を改めらるべきの旨、度々子細を掠し申すといえども、領家東大寺別当勧修寺故僧正御房御契状に任せ、代々更に御年貢の懈怠無く、其沙汰を致すの上は、訴訟の旨に及ぶべからず、これを申すに依り、道理顕然たるの間、先例に任せ沙汰致すべきの旨、前御任の時、仰せ下されおわんぬ。此上は、何ぞ押領の由を掠し申すべけんや、是一。

まず雑掌の訴状を引用し、それに対し「この条、存外の申し状」と反論する形態をとっている。行村の言い分によると、東大寺雑掌は「払っていない」と主張するが、年貢を勧修寺僧正聖基の契状通りに払っている、と主張している。

次に同状に云く、「前々寺務の初めは、地頭代子細を申し入れ、下知を成らせられるの後、庄務せしむの處、今度に於いては、其の子細申すに及ばず、押してこれを知行す」と云々。此の条、前々寺務の御時、子細別無く、先例に任せ仰下されおわんぬ。而るに当御任に至りては、未だ御下知を蒙らずの条、堪え難きの次第也、是二。

東大寺側は地頭代側からの報告・連絡・相談がなかったことを問題にしており、地頭代側は今まで通りに処理してきただけで、今は東大寺側から指示がない、と言っている。今のビジネスシーンでもありそうな話だ。島耕作あたりにでも出張させる必要があるかも。

次に同状に云く、「去年の分の絹綿今に未済の条、未曾有たるべき事の間、参洛を企て申すの散用、又未進を償うべきの由、下知せらるの處、たまたま参上しながら、散用を逐わず逃げ下りおわんぬ」と云々。此の条言うに足らずの申状也。未済の由、仰せ下されるの間、不日参上を企て明らめ申しおわんぬ。而るに先使賢舜、御年貢を納めながら、返抄を出さざるにより、一旦未済あるの由、御不審に及ぶ歟。全く一塵の懈怠なき者也。究済の条、結解を逐うの上は、何んぞ逃げ下るべけんや。且つ返抄を抑留するの子細、賢舜の時言上せしめおわんぬ、是三。

雑掌の賢舜の上洛費用も出させようとしたところ、京都にやってきた行村に請求したら逃げてしまった、という東大寺の言い分に、年貢を納めたにもかかわらず雑掌がその証明書を出さず、未納を言い立てている、と訴えている。東大寺側の未納の訴えに対し、全面的に争う姿勢を示している。
あとは長いので省略するが、東大寺側の雑掌が未納を捏造している、ということを主張しているのである。
興味深いのは「土民等寄事於賢舜之下知、去年御年貢暫雖令遅々」のところで「土民らが賢舜の下知に乗じて去年の年貢を遅らせている」と訴えている。阿弖川荘の有名な「百姓」らの「ミミヲキリ、ハナヲソキ」という文言も、地頭湯浅氏と荘園領主高野山の間で勝馬に乗ろうとした「百姓」の動きの一環であることが言われているが、茜部荘でも同様に荘園領主と地頭の争いの中で計算高く動く「土民等」の動きが見えるのである。