北条時輔関係史料 文永4年(1267)11月2日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』9795号)

伊藤行村が一生懸命陳状を出して自己の正当性を訴えたことに対する六波羅探題の反応。
まずは本文。

東大寺美濃国茜部荘雑掌申致新儀非法之由事、別当僧正御文(副重解状・具書)如此。去月中可参決之由、乍出請文、于今不参之条、甚以無謂、早今月廿八日以前、企参洛、可明申之状如件
文永四年十一月二日  散位 御判
           左近将監 御判
地頭代

読み下し

東大寺美濃国茜部荘雑掌が申す新儀非法を致すの由の事、別当僧正御文(副重解状・具書)此の如し。去月中に参決べき之由、請文を出しながら、今に不参之条、甚だ以て謂れなし、早く今月廿八日以前に、参洛を企て、明らめ申すべきの状件の如し
文永四年十一月二日  散位(時輔) 御判
           左近将監(時茂) 御判
地頭代(伊藤行村)

請文を出しながら上洛していないことが責められている。ついに十一月二十八日までに直接六波羅探題に出頭するように言われている。
どうやら行村はこれを無視したようで再び六波羅探題から御教書が出されることになる。伊藤行村の運命や如何。
完全に伊藤行村は悪者になってしまっている。幕府の御家人であるはずの地頭代と荘園領主東大寺との争いで明らかに六波羅探題東大寺側の肩を持っていることの意味についてはまた考えたい。