文永5年(1268)4月28日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』10237号)

ついに六波羅探題は地頭代伊藤行村にマジギレ、ということで、石川義秀なる人物に宛てて御教書を出している。
本文

東大寺衆徒等申美濃国茜部庄所務事、別当僧正御文(副解状)如此。地頭代称請所、令□(緩)怠年貢之由、雑掌訴申之間、為尋明子細、度々遣召文之處、于今不参之条、太自由也。早来月十日以前可被催上。若過期者、殊可有其沙汰之旨、可被相触也。仍執達如件
文永五年四月廿八日 散位 在御判
          陸奥守 在御判
石川七郎殿

読み下し

東大寺衆徒等が申す、美濃国茜部庄の所務の事、別当僧正御文(副解状)此の如し。地頭代請所と称し、年貢を緩怠せしむ之由、雑掌訴え申すの間、子細を尋ね明らめんがため、度々召文を遣わすの處、今に不参の条、太自由也。早く来月十日以前に催上せらるべし。若し期を過ぎば、殊に其の沙汰あるべきの旨、相触れらるべき也。仍て執達件の如し
文永五年四月廿八日 散位(北条時輔) 在御判
          陸奥守(北条時茂) 在御判
石川七郎殿(石川義秀)

注目点は3つ
1 北条時茂が「左近将監」から「陸奥守」となっている。「陸奥守」は北条氏の中でも上席の人物が就任する習わしである。時茂の地位の高さがわかる。何しろ北条重時の次男で、失権北条長時の弟である。長時の子孫の赤橋流は得宗に次ぐ家格を誇ったが、時茂の子孫も常葉流として六波羅探題北方を歴任する家系になる。正中の変の時の六波羅探題北方の北条範貞は彼の子孫にあたる。
2 石川七郎は地頭代の伊藤行村の上司にあたるのだろう。地頭代に対する宛名は「地頭代」と敬称略だったが、石川義秀に対しては「殿」を付けている。さらに書式も「仍執達如件」といささか厚礼である。さらに「可被相触也」と行村に報せるように、という文言があり、行村相手では埒が明かないと考えた六波羅探題は行村の上の石川義秀に御教書を送ったのであろう。
3 それに対する石川義秀の反応。『鎌倉遺文』10244号文書「源義秀請文案」。
一応本文

四月二十八日御教書、五月十六日到来。畏拝見仕候了。被仰下候任御教書之旨、茜部庄地頭代相催、可企参上之由、令申候之處、折節所労之間、相労候天、今月中、可令参上之由令申候。以此旨、可有御披露候、義秀恐惶謹言
文永五年五月廿日 源義秀 在判

要するに体調不良から出頭できないのでよろしく、と行村は言っています、という現代でもよくみる言い訳。義秀は行村を代弁するべき立場にいるのだろう。確実なことは言えないが、地頭長井氏の重臣あたりなのかも。
ところで陳状は完全にスルーされてるしw、行村かわいそす。
追記
石川義秀はおそらく源満仲の子どもの頼親の子孫で、頼義に従って陸奥国に下って土着した奥州石川氏の中で美濃国厚見郡市橋荘の地頭になった人物ではなかろうか。「美濃国」「源氏」「石川」でひっかかるのはこれくらいしか思いつかない。もしこの仮定が正しいとすれば、同じ厚見郡にある茜部荘の地頭代伊藤行村に対して埒が明かないとみた六波羅探題は市橋荘の地頭で鎌倉幕府御家人の石川氏に命じて伊藤行村にその意を通じようとし、石川義秀は伊藤行村の立場を六波羅探題に代弁しているのだろう。