北条時輔関係史料番外編 文永七年(1270)十月十八日「菅原秀氏請文」(『鎌倉遺文』10715号)

伊藤行村に代わって地頭代に就任した菅原秀氏の所信表明、というところか。
本文

東大寺美濃国茜部庄雑掌申御年貢以下事、別当僧正御房御文并年預五師状、謹下預了。此事、前地頭代行村陳状案文、進上之。委細見于彼状。而去七月之比、改行村被補秀氏了。而間、守先例、寺家御年貢、今月上旬令備進候了。且者、彼御返抄并納所之返状明白候。隨又衆徒御訴訟事、源起自年貢之不法。無其儀者、衆徒何無潤色之分哉之由、裁(戴)寺家之返状候。一切不可有緩怠之儀候也。兼又至地頭請所者、自勧修寺僧正御房御寺務之時、為請所、寺務十余代之間、送数十个年之星霜候了。寺家庄務之時者、御寺御年貢、或年者十疋、或年者及廿疋之弁済云々。然而、地頭請所之後者、毎年百疋・千両之御年貢、于今無懈怠、是則閣地頭得分、被専寺家御年貢之故也。且者為公平、且者可謂盡忠候歟。其上所被申請候之御年貢、依無懈怠、寺務代々之間、一切無違乱而巳、経年序候之上者、今何可有別子細候乎。向後又寺家御年貢、可致丁寧沙汰之由、相存候。更不可有不法之儀候哉。早寺家三問三答訴陳者、奉行所へ行村令進上候之間、不及出対、所詮、被停止当雑掌新儀濫訴、任領家御契之状之旨、且任傍例、欲蒙御成敗、以此旨、可有洩御披露候。秀氏恐惶謹言。
 文永七年十月十八日  左衛門尉菅原秀氏請文

東大寺の「濫訴」に秀氏も困っているようだ。東大寺の目標はあくまでも「地頭請」の廃止であるから、地頭代が代わっても東大寺側には不十分なものなのだ。だから雑掌は何が何でも地頭代をけ落とそうとする。地頭側は東大寺の「濫訴」であることをアピールする。時輔はどう動くだろうか。