北条時輔関係史料 文永8年(1271)2月21日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』10785号)

東大寺美濃国茜部荘の地頭代と東大寺の争い。地頭代を伊藤行村から菅原秀氏に代えたが、そもそも東大寺の「濫訴」にも原因があるようで、六波羅探題は上洛を促すものの、地頭代にとっては負担が大きく、上洛を渋るうちに六波羅探題の心証を損ね、不利になっていく、というパターン。ただ地頭の長井泰茂は幕府の大物なので、六波羅探題も強く出ることが出来ず、地頭代のしっぽきりに終始せざるをえない状況、というところだろう。
本文

東大寺美濃国茜部庄雑掌申年貢事、別当僧正御房(副五師状)如此。擬尋決之處、帰国之条、太無謂。来月十日以前、可令参決之状如件。
 文永八年二月廿一日  散位在御判
地頭代

読み下し

東大寺領の美濃国茜部庄の雑掌が申す年貢の事、別当僧正御房(五師の状を副ふ)此の如し。尋決を擬すの處、帰国の条、太だ謂れなし。来月十日以前、参決せしむべきの状件の如し。
 文永八年二月廿一日  散位(北条時輔在御判
地頭代(菅原秀氏)

判決前に帰国してしまったことが責められている。しかし六波羅探題も寛容なものだ。裁判で判決直前にいなくなってもわざわざ裁判を延期したりしないだろう。
東大寺関係の時輔御教書は今のところこれが最後。一年後には時輔が二月騒動で粛正される。ただ一年後なので、当然まだ時輔は裁判にはかかわっているはずで、現にあと一つ時輔発給の六波羅御教書が残されている。それが7月29日。さらに時輔に宛てた関東御教書も二通あって、それが10月16日付け。長らく空席だった北方に北条義宗が赴任する直前。義宗着任直後に時輔の討伐が行なわれていることを勘案すると、10月16日付けの関東御教書もいろいろと考えることが出来そう。これは時輔受給文書の時に考えたい。