北条時輔関係史料考察

今回の東大寺と地頭代の訴訟を大ざっぱにまとめておく。
東大寺
地頭代が年貢を納めなかったり、粗悪品(史料中の「麁品」)を送り付けたりする。訴えてやる!地頭請を停止させろ!
地頭代(伊藤行村)
きちんと年貢は納めている!
六波羅探題
地頭代は全然上洛しない。けしからん!
地頭(長井泰茂)
地頭代を伊藤行村から菅原秀氏に代えますた。
地頭代(菅原秀氏)
東大寺の「濫訴」もきついっすよ。
六波羅探題
地頭代はいい加減上洛しろYO!←今ここ
ここで一つ素朴な疑問が浮かばないだろうか。六波羅探題鎌倉幕府出先機関で、主として朝廷の監視や西国御家人の統治に当たっていたが、権能の一つに国司荘園領主御家人との紛争の裁判もあった。今回の事例では六波羅探題鎌倉幕府の大物御家人長井泰茂に配慮しながらも、東大寺側に立って地頭代を厳しく責めている、という点である。この点について少し考えたい。
敗戦直後に日本中世史研究をリードしたのは石母田正が提唱した領主制理論であった。古代奴隷制から封建制への転換を考察した領主制理論においては、武士は有力な農民が武装した在地領主と考えられ、「草深い」地方から立ち上がった在地領主が都市に基盤を持つ古代的デスポティズムである天皇制及び貴族社会に階級闘争を挑んだ、と考えられた。在地領主が結集して作り上げた政権が鎌倉幕府であり、六波羅探題の設置は古代的デスポットである朝廷への勝利のはずであった。従って六波羅探題は在地領主である伊藤行村を支持するのが本筋であるはずだ。しかし現実には六波羅探題北条時輔は地頭代ではなく、東大寺の代弁を行っている。これを領主制理論では鎌倉幕府の不完全性の証左とするのである。つまり鎌倉幕府は不完全な封建国家であり、過渡期にあたる、というのだ。封建革命が成功するのは、国人領主が在地の支配を貫徹した室町時代という意見や、むしろ中世(鎌倉時代室町時代)は奴隷制社会であり、太閤検地によって農奴制社会である封建制が確立する、という意見もある。
黒田俊雄が提唱した権門体制論においては階級闘争の主体を在地領主ではなく、百姓である、と考え、支配階級である荘園領主と対峙する存在と考える。そのような下部構造の上にそびえ立つ上部構造を権門体制と名付けている。黒田の見方では中世国家は鎌倉幕府と朝廷と分立しているのではなく、あくまでも「日本」の中世国家の一部門である、と考える。鎌倉幕府も権門体制国家の中で「武」を担当する権門勢家の一つである、と考える。天皇家(王家)も一つの権門勢家であり、天皇制が中世を通じて存続するのは、国制上の地位は低下しながらも、最大の荘園領主として、権門として存続したからだという。
黒田の研究は明らかに石母田の研究を「修正」しているわけであるが、黒田の立場を「歴史修正主義」と規定する人はいない。にも関わらず「歴史修正主義」とは「新しく発見された史料や、既存情報の再解釈により、歴史を叙述し直すことを主眼とした試み」(歴史修正主義 - Wikipedia)とする見解もあるが、それならば黒田の立場も「歴史修正主義」ということになる。それどころか全ての歴史学の成果は「歴史修正主義」ということになる。
それでは「歴史修正主義」とはどう考えるべきだろうか。自分に反する歴史像に「歴史修正主義」のレッテルを貼り付けて批判したつもりになっているのでは意味がない。
実際には、現在話題となっている歴史修正主義とは「〈客観的事実〉を措定する思考の破産」を主張する「言語論的転回」を経て、「実証」という手続きそのものに疑問を呈し、「科学」としての歴史学を全否定し、物語として把握する歴史観のことである、と私は考えている。そこでは「実際に何があったか」ではなく、「民族」なり「国家」の団結のために活かされる「物語」が重視される。
従って六波羅探題の立場を「歴史修正主義」的に把握すると次のようになるだろう。この文書の出展はすべて『東大寺文書』である。従って一連の「六波羅御教書」もすべて「捏造」されている、と考える。六波羅探題東大寺に有利な活動をしていたこと自体に疑問を呈するのである。六波羅探題が「反鎌倉幕府的行動をとるわけがない」という前提が強固にある。東大寺の正当性を主張する人々に対しては「東大寺工作員乙」とか「東大寺の人間は東大寺に帰れ」という。つまり歴史は「単一の出来事」ではなく、東大寺には東大寺の主張のための「物語としての歴史」があり、鎌倉幕府には鎌倉幕府の主張のための「物語としての歴史」がある、という考え方になる。
こういう見方はまさにこの十年ほどの間に流布され、影響力を持ってきた見方である。この十年ほどに「過去の歴史の見直し」という言説が力を持ってきた背景の考察の一つである、と考えていただければ、と思う次第である。