北条時輔関係史料  文永4年(1267)12月26日「関東評定事書」『新編追加』(『鎌倉遺文』9838号)

二時間かけて書いたエントリが吹っ飛んだ。もちろん日記のバックアップ機能をオンにしていなかった私のあたまがわるい。気を取り直してもう一度と思うが、気力が尽きた。散髪行こう。
散髪に行って気分転換。で「『通りすがり』に根拠なくDISられたら勝ち」ということを思い出してさあ、書こう。徳政令に関心のある方もいらっしゃるみたいだし。
「徳政令」と「徳政」とは異なる。「徳政令」というのは、債務破棄の法令のことである。もともとは御家人所領の移動制限の法律で、御家人領の売買の禁止や御家人領を担保に入れて借金をするのを禁止し、すでに売却あるいは差し押さえられた所領を取り換えさせる法令である。しばしば1297年の「永仁の徳政令」が「最初の徳政令」と記述されるが、実はそうではない、と考えられている。幕府法における一番古い御家人領の移動及び貸借関係契約破棄の法令は永仁の徳政令の三十年前にすでに出されていた。それが今回取り上げる文永四年十二月二十六日付けの「関東評定事書」である。ここまでみてきた文書は六波羅御教書という、北条時輔が出す側の文書だったが、今回は北条時輔が受け取る側の文書である。

条々 文永四年十二月廿六日評定
一 以所領入質券令売買事
右、御家人等、以所領或入質券、或令売買之条、為佗傺之基歟。自今以後、不論御恩・私領、一向停止沽却并入流之儀、可令弁償本物也。但非御家人之輩事、被載延応制之間不及子細歟。
一 以所領和与他人事
右、閣子孫、譲他人之条、結構之趣、甚非正義、不謂御恩・私領、向後可被召彼和与之地也。但以一族并傍輩子息、年来令収養者、非制之限焉。
   陸奥守殿
   相模式部大夫殿

読み下し

条々 文永四年十二月廿六日評定
一 所領を以て質券に入れ、売買せしむる事
右、御家人等、所領を以て或いは質券に入れ、或いは売買せしむるの条、佗傺の基たる歟。自今以後、御恩・私領を論ぜず、一向沽却并入流の儀を停止し、本物を弁償せしむべき也。但し非御家人之輩の事、延応制に載せらるの間子細に及ばず歟。
一 所領を以て他人に和与の事
右、子孫をさしおき、他人に譲るの条、結構の趣、甚だ正義にあらず、御恩・私領といわず、向後彼の和与の地を召さるべき也。但し一族并傍輩子息を以て、年来収養せしめば、制の限しにあらず。
   陸奥守殿(北条時茂
   相模式部大夫殿(北条時輔

質の抵当に入れたり、売却したりするのを禁止し、御家人領を移動させないことにこの法令の眼目がある。そして「本物」つまり「元本」の弁償で質入した所領を取り返せる、ということは、逆に言えば利子の返済を免除されているのである。ちなみに「延応制」とはおそらく「新編追加」一四五の延応二年四月二十五日付けの「凡下輩不可売買領地事」のことであろう。そこでは「凡下之輩并借上」「侍已上の非御家人たる者」「山僧」が御家人領に関わることを禁止している。その趣旨の徹底であり、この法令では御家人領が非御家人に移動することは想定されていない。後の「永仁の徳政令」とは何が違うか、と言えば、まずは今回の「文永四年付けの関東事書」においてはあくまで相手は御家人であったことと、もう一つは「本物の弁償」によって債務が破棄されるという側面がある。要するに「永仁の徳政令」に比べるとまだマイルドで、利子だけが「徳政令」の対象になっている。その意味でこれは「徳政令」としてはいささか足りない所が多いだろう。
この法令は二年半後の文永七年五月九日付けの以下の「関東評定事書」で否定される。
一応条文だけ記しておく。

一 以所領入質券、令売買事
一 以所領和与他人事
右二カ条被棄破畢。早可被存其旨之状、依仰執達如件
 文永七年五月九日  相模守 判(北条時宗連署
           左京権大夫 判(北条政村・執権)
  尾張前司入道殿(名越時章

宛名が後に二月騒動で粛正される名越時章というのが面白い。
次回は乗り掛かった船、ということで、より「徳政令」らしい文書を見てみる。
前に書いていたのと全然違う・・・。