永仁の徳政令 永仁五年(一二九七)三月六日関東事書・同年七月二十二日関東御教書

永仁の徳政令の存在が今日に伝わるのは『東寺百合文書』京函所収の次の文書によってである。

一、可停止越訴事、
右、越訴之道遂(逐)年加増、奇(棄)置之輩多疲濫訴、得理之仁、猶難安堵。諸人佗傺職而此由。自今以後可停止之。但逢評議而未断事者、本奉行人可執申之。次本所領家訴訟者、難准御家人。仍云以前奇(棄)置之越訴、云向後成敗之条々事、於一箇度者、可有其沙汰矣。
一、質券売買地事、
右、以所領、或入流質券、(或令脱)売買之条、御家人等侘傺之基也。於向後者、可従停止。至以前沽却之分者、本主可令領掌。但或成給御下文下知状、(或脱)知行過廿簡(箇)年者、不論公私之領、今更不可有相違。若背制符、(有脱)致濫妨之輩者、可被処罪科矣。
次非御家人凡下輩質券買得地事、雖過年紀売主可(令脱)知行。
一、利銭出挙事、
右、甲乙之輩要用之時、不顧煩費、依令負累、富有之仁専其利潤、窮困之族弥及佗傺歟。自今以後不及成敗。縦帯下知状、不弁償之由、雖有訴申事、非沙汰之限矣。次入質物於庫倉事、不能禁制。
関東御教書 御使山城大学允 同八月十五日京着
越訴并質券売買地、利銭出挙事、々書一通遣之。守此旨、可被致沙汰之状、依仰執達如件
 永仁五年七月廿二日  陸奥守 在御判
            相模守 在御判
  上野前司殿
  相模右近大夫将監殿

まずは読み下し。

一、越訴を停止すべき事、
右、越訴の道年を逐って加増し、棄て置くの輩(敗訴者)多く濫訴に疲れ、得理の仁(勝訴者)、なお安堵しがたし。諸人の佗傺(困窮)もととして此による。自今以後これを停止すべし。但し評議に逢いて未断の事は、本奉行人これを執り申すべし。次いで本所領家の訴訟は、御家人に准じがたし。仍て以前棄て置くの越訴と云い、向後成敗の条々の事と云い、一箇度においては、其の沙汰あるべし。
一、質券売買地の事、
右、所領を以て、或いは質券に入れ流し、或いは売買せしむるの条、御家人等侘傺の基なり。向後においては、停止に従うべし。以前沽却の分に至りては、本主領掌せしむべし。但し或いは御下文下知状を成し給い、或いは知行廿箇年を過ぎば、公私の領を論ぜず、今更相違あるべからず。若し制符に背き、濫妨を致すの輩有らば、罪科に処せらるべし。
次いで非御家人凡下の輩質券買得地の事、年紀を過ぐると雖も売主知行せしむべし。
一、利銭出挙の事、
右、甲乙の輩要用の時、煩費を顧みず、負累せしむるに依り、富有其の利潤を専らにし、窮困之族いよいよ佗傺に及ぶ歟。自今以後成敗に及ばず。縦い下知状を帯し、弁償せざるの由、訴え申事ありと雖も、沙汰の限りにあらず。次いで質物於庫倉入るる事、禁制能わず。
関東御教書 御使山城大学允 同八月十五日京着
越訴ならびに質券売買地、利銭出挙の事、事書一通これを遣す。此旨を守り、沙汰致さるべきの状、仰に依って執達件の如し
 永仁五年七月廿二日  陸奥守(大佛宣時・連署
            相模守(北条貞時・執権)

  上野前司殿(大佛宗宣・六波羅探題南方)
  相模右近大夫将監殿(北条宗方六波羅探題北方)

内容について。
永仁の徳政令」と言われてまず思い出すのが御家人の借金棒引きであろう。モンゴル戦争後の出費増の中で経済的に行き詰まった御家人が金融業者から債務を重ね、結果担保の所領を失う事例が出たので、借金を棒引きした、という話だ。実際には現在確認できる限りではこの3条はセットで考えられねばならない。借金棒引きという側面だけでは語り尽くせないのである。
第一条は越訴の停止である。越訴とは敗訴者の再審請求、つまり控訴ということである。一度決着した裁判をもう一回やり直すことは、裁判の信頼性につながり、逆に言えばコストの増大につながる。「統治」という側面は裁判の充実につながる。安達泰盛を代表とする「統治」派の人々はしばしば越訴頭に就任していた。北条時輔六波羅探題南方に抜擢されたのも、西国における裁判を管掌する六波羅探題の充実策とみることができよう。それを停止する、というのは、「統治」の転回である。
第二条がいわゆる「徳政令」である。「徳政令」とは債務破棄の命令をいう。このような債務破棄の命令はこれが始めてではない。古くは文永四年の十二月に出され、それは文永七年の五月に撤回されるものの、文永十年七月に復活する。弘安七年五月にはなしくずし的に否定される。「徳政令」という幕府の根幹につながる政策が短期間に二転三転するのは、政策を異にする集団、つまり安達泰盛を中心とする「統治派」と平頼綱を中心とする「御家人の利益派」の対立を表しているのではないか、という本郷和人氏の指摘(『新・中世王権論』新人物王来社)は非常に示唆に富む。この事書のうち、「徳政令」関係の条項だけが継続され、第一条と第三条は早々に撤回されるのであるから、この第二条の「徳政令」が非常に大きなウェイトを占めていることがわかる。
この第二条を解釈しよう。

一、質券売買地の事、
右、所領を債務の担保に取られたり、売買を行なったりすることについては、御家人等の困窮の原因となっている。今後は、停止せよ。以前に売却した分については、売主に返却せよ。但し、鎌倉幕府の正式の許可を得ているとか、知行が廿箇年を過ぎていれば、公私の領に関わらず、買主のものとする。若しこの法に背き、濫妨を致す輩がいれば、罪科に処す。
次いで非御家人凡下の輩の質券買得地の事については、年紀を過ぎているといえども売主が知行せよ。

この前半部分は御家人同士の土地の売却や土地を担保にすることを禁止し、さらに以前の取引に遡及して契約解除を命じている。ただその売却もしくは担保が鎌倉幕府の正式の許可を得ているか、二十年経過している場合はその限りではない。
後半部分は非御家人に売却した場合は年紀を過ぎていようとも、除外条件を認めない、ということで、御家人の所領移動の制限に眼目がある。この点を忘れてはいけない。徹底した御家人の利益擁護、という本郷氏の指摘は従うべきと考える。
第三条はこれも裁判の簡略化ということで、幕府が「雑訴興行」つまり民事訴訟の充実、という「統治」の理念から外れる。
実はこの一連の事書は従来の「徳政」路線とは真逆の方向性を持っている。つまり例えば安達泰盛による「弘安徳政」や後嵯峨院政や亀山院政において行われた「徳政」とは全く反対の方向性を持っているのである。本来「徳政」の柱が「雑訴興行」であった。「自力救済」という日本中世社会の慣行の下では強者が得をし、弱者が蹂躙される。北条重時によって支えられた北条時頼政権は訴訟制度の充実を通じて「道理」に基づく政治を行なおうとした。それは朝廷にも影響を与え、東西相呼応して「徳政」が遂行されることになった。「徳政」路線は重時の娘婿で、時頼の義兄弟でもあった安達泰盛や、北条時頼を支えた北条実時によって伝えられた。しかし重時の子孫の長時・時茂・義宗の相次ぐ早世、北条義政の失脚を通じて「統治派」は追いつめられていく。「御家人の利益派」を代表する平頼綱安達泰盛の対立を止揚する政治方針を出せない北条時宗は動きが取れず、時宗の死を契機に安達泰盛が一気に弘安徳政を通じて大改革をはかるも、頼綱のクーデターによって「統治派」は葬り去られる。頼綱自身は後に北条貞時に粛正されるも、「御家人の利益派」の政治方針はその後は動かなかった。いわゆる「永仁の徳政令」はそれを示しているのである、と考えられよう。