徳政令関係史料 文永十年(1273年)7月12日「関東評定事書」『新編追加』(『鎌倉遺文』11362号)

フビライからの使者を退けた日本に元が来襲する可能性は高まっていた。そういう中で文永9年には北条時宗名越時章名越教時を謀殺し、さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて南方の北条時輔を討たせる。評定衆の筆頭であった時章の保持していた筑後・肥後・大隅守護職はそれぞれ大友頼泰少弐資能などに与えられ、時輔の保持していた伯耆守護職は佐原頼連に与えられた。異国警固の形を整える中で、鎌倉幕府は同年11月に全国の御家人領の調査に乗り出す。その結果多くの御家人領が移動していることが分かった。幕府は思いきった御家人所領回復に乗り出す。
本文

一 質券所領事
今日以前分事、不論質券見質、雖不弁本銭、止銭主之沙汰、本主可全領知也。被成御下文者、不及改沙汰。但正嘉元年以来御下文者、就理非致越訴之条、非制之限、入質之地者、今年中以後、可令返之。

読み下し

一 質券所領の事
今日以前分の事、質券・見質を論ぜず、本銭を弁ぜずといえども、銭主の沙汰を止め、本主領知を全うすべき也。御下文を成されば、改め沙汰に及ばず。但し正嘉元年以来の御下文は、理非につきて越訴を致すの条、制の限りにあらず。入れ質の地は、今年中以後、これを返さしむべし。

これは以前の御家人間での御家人所領の移動を禁止した法令に比べると、徹底している。以前は土地の取り返しは無条件ではなく、「本物」つまり元本を返せば、利子の返済を免除する、というものであった。今回は元本すら返済することなく銭主から本主に所領を返却するように命じている。「但」以下の内容は、文永八年(一二七一年)の不易法により、1256年までの「沙汰」については一切改めない、ということになっているので、1257年、つまり正嘉元年以降の「御下文」つまり幕府の正式の安堵についても「致越訴」つまり異議申し立てを銭主に対する本主側の異議申し立てを認めたのである。
幕府のこの政策と並行して朝廷でも亀山天皇のもと、「神事」「仏事」「倹約」「任官」「雑訴」からなる「徳政」つまり行政改革を行った。御家人の土地移動の制限に関する法令が「徳政令」と呼ばれるようになる一つの機縁と網野善彦氏は『蒙古襲来』(小学館版『日本の歴史10』1974年、後に小学館文庫から発刊)で指摘する。
実際御家人の土地移動の制限に関する法令が「徳政令」と呼ばれる原因については、笠松宏至氏が『徳政令』(岩波新書、1981年)において考察している。