鎌倉時代の「陸奥守」北条時村

北条時村北条政村の子として1242年に生まれる。21歳で左近将監を振り出しに、引付衆を経て評定衆入りしている。引付衆を経ずに六波羅探題などの要職に就く重時の子孫に比べると少し扱いが劣るのは、政村の子孫だからであろう。
1271年に北条時茂の死後空席となっていた陸奥守に任ぜられる。30歳での陸奥守は速すぎず遅すぎず。順調な出世と言えよう。陸奥守時代に二番引付頭人を経て六波羅探題北方に就任、六波羅探題在任中の1282年に陸奥守から武蔵守に転じている。
六波羅探題から一番引付頭人になり、1301年、60歳の時に連署に就任、しかし1305年に北条宗方北条時宗の弟宗頼の子で貞時の従弟、当時内管領として貞時の側近中の側近であった)によって殺害される。宗方も貞時によって粛正され、大佛宗宣が連署に就任する一連の事件を嘉元の乱という。これについてはまた述べる。
陸奥守という官職が連署に昇り得る人物に与えられる地位になっていることがうかがえる。