鎌倉時代の「陸奥守」北条宗宣

北条宗宣は時房流大佛家北条宣時の子として1259年に生まれる。1282年、24歳で雅楽允を振り出しに28歳で引付衆、1287年、29歳で評定衆、1293年に越訴頭人、1296年39歳で四番引付頭人、寄合衆となる。1297年六波羅探題南方として上洛、執権探題として永仁の徳政令の実施をめぐって朝廷と交渉する。1301年に陸奥守、1302年に鎌倉に帰り、一番引付頭人、官途奉行を経て1303年に越訴頭人、1305年嘉元の乱で殺害された連署北条時村の後を継いで連署に就任、1311年には執権に上り詰める。時に53歳。しかし半年後病により出家、引退、直後に病死。
宗宣の経歴で注目されるのは六波羅探題南方でありながら、朝廷との交渉を担当する「執権探題」になっていたことである。森幸夫氏の『六波羅探題の研究』に詳しいが、従来執権探題は南方しか置かれていなかった北条時輔の時代を除くと概ね北方が務めてきた。この時には北方には北条宗方が就任していた。宗方は時宗の弟の宗頼の子で、9代執権北条貞時のいとこに当たり、貞時の側近として期待されていた。家柄の高さを見込まれて北方に就任したが、まだ若年であるため、朝廷との折衝が必要になる執権探題には経験豊かな北条宗宣をさしむけたのだろう。この時の六波羅探題には御家人の所領移動禁止とともに非御家人の手に渡った御家人領を取り戻させる「徳政令」を朝廷に認めさせる必要があった。得宗の従弟という宗方と、政治家として熟練した宗宣のコンビはまさに「徳政令シフト」と言えよう。そして徳政令の実施を西国において断行した宗宣は政治家として能力があった、と考えられよう。
宗宣のもう一つのハイライトは嘉元の乱の始末である。嘉元の乱は北条宗方が貞時の仰せと称して連署北条時村を殺害した事件である。数日後には時村の謀反が虚偽であったことが分かり、時村を殺害した御家人御内人が処刑されたが、それだけでは収まらず、事件の張本人と見なされた宗方が宗宣に討たれる、という事件である。