三人の「陸奥守」ー嘉元の乱に関する一試論ー

1305年に起きた嘉元の乱に関しては史料があまり残っていないこともあってその実像は闇の彼方にある。南北朝時代に書かれた「保暦間記」に従うと次の通りになる。
北条時宗の弟の宗頼の子で、九代執権北条貞時の従弟であった内管領(侍所所司兼得宗公文所北条宗方は執権の座を狙い、十代執権北条師時時宗の弟宗政の子)と貞時の娘婿であった時煕、さらにその祖父の時村(北条政村の子)の打倒を企て、まずは時村を襲撃したが、宗方は貞時の命を受けた佐々木時清と相討ちになり、宗方邸を北条宗宣が襲撃して宗頼流北条氏が滅亡した。
この事件については不明確な点がいくつかある。この問題に関する細川重男氏の『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館)に収載されている「嘉元の乱と北条貞時政権」をもとにこの事件を再構成しよう。
まずは貞時政権の政治理念についてであるが、細川氏は5つに分類している。1時宗政権の復興、2従弟師時・宗方の登用、3法曹官僚系氏族の登用、4北条氏庶家の抑圧、5家業の否定。この内、1は永仁初年段階のみにみられ、2以下の政策が一貫して推し進められていることを考えると、貞時政権の基本理念は2以降である。貞時は得宗専制を目指し、得宗一門の師時と宗方を登用した。そして貞時のその路線に抵抗した最大の勢力が北条氏庶家であった。北条氏庶家は得宗家一門と法曹官僚の後世によって後退を続ける。貞時は最長老の連署大佛宣時を道連れにして出家し、北条氏庶家はその後釜に長老の時村を据え、反撃に転じる。
貞時は宣時引退後、北条氏庶家の最長老となった時村を抹殺し、反対派を一気に圧倒しようとしたと考えられる。しかし時村殺害への反発が予想以上に激しく、貞時は討手の斬首で事態を乗り切ろうとしたが、最終的に責任回避のために宗方を切り捨てざるを得なかった。
乱後一ヶ月経過した6月段階で評定は再開されたが、貞時も宗宣も出席せず、鎌倉幕府は機能不全に陥っていた。細川氏は宗方滅亡にも関わらず、貞時・師時の得宗家一門と大佛宗宣らの北条氏庶家との暗闘が継続していたのではないか、と指摘している。結局七月に入って宗宣が連署に就任、貞時は完全に敗北し、以後貞時は政務への意欲を失ってしまう。
以上が嘉元の乱に関する細川氏の指摘を私なりにまとめたものである。もちろん遺漏や誤読も少なくないと思うが、ご容赦を。
私が細川氏の理解に付け加えるべき何かを持っているわけではないが、私の今の関心に惹きつければ、この事件で一番利益を得たのが大佛宗宣であることは論をまたないだろう。これ以降、陸奥守は宗宣の子の維貞、甥の貞直に受け継がれ、「陸奥守」=大佛家の家職となる。これは「陸奥守」の地位の低下ともみることが出来ようが、私は大佛家が北条氏庶家の筆頭に実力で上り詰めた証しである、と考えている。その点については次の大佛維貞のところでみていきたい。