鎌倉時代の「陸奥守」北条宣時

北条宣時は大佛流北条朝直の子。大佛流は北条氏の中でももっとも傍流で、本来家格は最も低かった。時政の子の時房を祖とする家系で、義時の子孫よりも一段格下に置かれていたのである。しかし朝直は評定衆に上り、兄の佐介流北条時盛を抑えて時房流の嫡流の地位に就いた。最終的には一番引付頭人にまで昇進した。宣時が北条時頼邸を訪ねた時に出された酒肴が味噌だった、という逸話にも登場している。時頼の信頼も厚かったのだろう。
宣時は1238年に生まれ、1265年に28歳で引付衆になったのを振り出しに1267年武蔵守に任官、1273年に評定衆、1277年に二番引付頭人、1283年に一番引付頭人になり、1287年業時の後を承けて連署に就任、さらに1289年には陸奥守に任官している。霜月騒動後に連署陸奥守に任官している所をみると、宣時は平頼綱を支えていたのだろうと考えられる。
この時期の貞時政権の方針は安達泰盛御家人の再編と非御家人を取り込む、いわゆる「武家一統政権」「統治」方針を否定し、現時点での御家人の既得権を保護する方針を打ち出す。この選択は畿内地域で成長した新たな領主階級を排除することとなり、彼らが後に鎌倉幕府に対抗する「悪党」の母体となる。もっとも「悪党」という文言自体が、訴訟において自分と対立する相手を国家的犯罪人として指弾するための言葉であり、いわば「レッテル」であったことにも注意する必要がある。「悪党」という実体的な集団が存在したのではない。現政権に反抗する人々に対して「悪党」というレッテルを貼り付け、幕府権力によって排除したのである。
御家人の既得権を保護する方針を設定した頼綱だったが、頼綱自身は御家人である得宗家の被官にすぎず、御家人よりも一段低い身分であった。御家人の不満は頼綱に向かい、頼綱は貞時ー宣時に見切りをつけられ、平禅門の乱で滅亡する。貞時ー宣時政権は泰盛派の人々の復権をはかり、金沢顕時や安達時顕を幕政に復活させる。しかし一方で「御家人の既得権保護」という方針は、例えば永仁の徳政令と呼ばれる御家人領移動禁止令にもみられる通りである。
貞時政権は唐突に終わりを告げる。1301年8月22日彗星が現れた(ハレー彗星)。一ヶ月近くにわたって巨大な彗星が現れたことは、人々を恐怖に陥れた。その夜貞時は執権を辞し、時宗の弟宗政の息子、つまり貞時の従弟で、当時二番引付頭人であった北条師時が十代目の執権に就任する。連署の宣時も辞任し、一番引付頭人であった北条時村連署に就任する。
貞時の出家については、彗星が当時天譴を表すことから、自発的に辞任し、そこに政治的思惑はなかった、という見解を海津一朗氏は『神風と悪党の世紀』(講談社現代新書、1995年)で発表しているが、貞時と北条一門の間の不協和音も考えると一概には言えないだろう。貞時もまた政治的思惑で執権を退任した、あるいはさせられた可能性についても考える必要があるだろう。
宣時が引退して時村が連署に就任した、この一連の動きをどう考えるべきなのか。時村は嘉元の乱で貞時の信任厚い北条宗方に殺され、宣時の子の宗宣が宗方を討つ。宗宣はその後連署になり、ついには執権にまで上り詰める。この問題は宗宣の項目で述べられることになるだろう。