金沢貞将は誰を威圧したのか

河内祥輔氏は『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館)において後醍醐天皇による第一次倒幕計画、いわゆる正中の変について疑問を呈する。確かに正中の変後の幕府の対応には不審な点が多い。後醍醐が倒幕計画にいささかでもかかわっていたならば、ただちに皇位から引きずり下ろされてしかるべきだろう。現に後醍醐の退位を望む勢力は朝廷内にこそいたのだから。皇太子邦良親王は後醍醐の退位を最も強く望んでいるだろう。後伏見上皇も後醍醐が退位するに越したことはない。実際彼らによる運動は熾烈を極めていた。幕府はなぜ後醍醐を退位させなかったのか。河内氏はその理由を、そもそも後醍醐の倒幕計画は存在せず、後醍醐の退位を望む勢力による捏造である可能性を指摘する。幕府の取り調べの結果、後醍醐による倒幕計画の事実はなく、しかしその背景を深く追究すると後伏見や邦良にまで嫌疑が及ぶ。事件が幕府の手に負えなくなった時、幕府は「倒幕の企て」を日野資朝美濃源氏の小さな動きに矮小化し、事件の幕引きを計った、というのである。
こう考えると金沢貞将が六波羅探題南方として上洛する時に五千騎を引き連れて上洛したことの意味も変わってくる。金沢貞将は正中の変直後五千騎の軍勢を引き連れて上洛する。花園天皇は日記に「貞将上洛。為六波羅南方云々。其勢五千騎許。超過于先例云々」と書いていることの意味も変わってくる。「超過于先例」という言葉に注目したい。「超過」を『時代別国語大辞典 室町時代編』で引くと「その類としての一般的水準、また、あるべき限度をはるかに超えていること。」とある。金沢貞顕がかつて上洛した時には千騎であったから、確かに「超過」である。貞将の父貞顕は花園からは好感をもって見られていない。貞顕は後宇多法皇の女御永嘉門院(宗尊親王娘)に肩入れして花園から「貞顕張行」と言われている。「張行」とは「その場の事情などを考慮せず、あえて事を強行すること」とある。貞顕は一貫して大覚寺統側に立って行動している。政所の二階堂道蘊が露骨に持明院統に肩入れするようになった時に貞顕が逆に「道蘊張行」と憤っている。
貞顕が貞将に五千騎をつけて上洛させたのは後醍醐天皇を威圧するためではないのかもしれない。威圧の相手は持明院統だったのではないだろうか。だからこそ持明院統の花園は「超過于先例」と書き残したのではないだろうか。
われわれは何となく後醍醐=倒幕という先入観で見てしまう。しかし本当にそうなのか、もう一度冷静に見据える必要があるだろう。
後醍醐が倒幕に舵を切るのは、邦良親王の死後、皇太子に持明院統量仁親王が擁立され、その後の次期皇太子に邦良親王の嫡子康仁王が立てられた時ではないだろうか。この時期、治天の君になるには、天皇直系尊属である必要があった。治天の君からすべり落ちた天皇は完全に死に体である。量仁が即位し、康仁が立太子ということになると、後醍醐は朝廷における主導権を失う。後醍醐が完全に「一代主」になることが確定した時、後醍醐には倒幕によって全ての権力構造を破壊する意図が生じたのではないだろうか。